ことば調査報告
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
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旧教員へのインタビュー(1)
佐藤カツ氏インタビュー風景
インタビュー映像
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駒木勝一氏インタビュー風景
インタビュー映像
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長岩以久子氏インタビュー風景
インタビュー映像
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語り手: 佐藤カツ氏 (以下、佐藤) S.24〜26在職
  駒木勝一氏 (以下、駒木) S.30〜41在職
  長岩以久子氏 (以下、長岩) S.54〜H.4在職
※佐藤カツさんは、小学校時代に遠藤熊吉の授業を受けていた。
聞き手: 児玉 忠 (以下、児玉)
  北条常久 (以下、北条)
インタビュー映像
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児玉: まず佐藤カツ先生からお尋ねしたいんですけれども、先生は西成瀬小学校に2年間在職されていたとのことですが、赴任された頃の西成瀬小っていうのは、クラスの学年は子供たちが何人くらい居ましたかね、大体。
佐藤: さぁ、私ねちょっと記憶ないんですけれども、1クラスそうですね、30人ぐらいはいたんでしょうか。戦後でしたので、非常にごたごたしている時期でね、人数そのものも曖昧なんですけれど、2クラスぐらいずつありましたね。
児玉: 1学年がですね。その2年間西成瀬小におられた後はどちらの方に転勤なさったんですか。
佐藤: 増田中に。
児玉: ええ、増田中学校の方にね。分かりました。西成瀬小の前には東成瀬小学校にいらっしゃったとのことですが、こちらには何年ぐらいおられたんですか。
佐藤: 7年おりました。
児玉: 東成瀬小に7年もいらっしゃったんですか。なるほど。で、その当時、そのまあ、西成瀬小に赴任することになった時に、西成瀬っていう所が遠藤熊吉先生で有名な地区だってことは、もちろんご存知でしたよね。
佐藤: それは存じておりました。
児玉: それは、どういう感じだったんですか。わー、えらい学校に転勤になったなあって感じですか。それとも、ようしやるぞ、と。
佐藤: いえ、ぜんぜん違いますね。
児玉: ええ、どういう感じだったんですかね。
佐藤: ええ、ここを卒業して増田の女学校に入ってその後、吉乃鉱山にね、(父が雇用を決めていて)2年間勤めているんですよ。戦争中のそれこそ真っ只中で、男の先生方がボンボンボンボン召集されてね、穴になってるんですよね、教室が。で東成瀬の小学校にもそういう関係で鉱山から無理にっていえば語弊がありますけど、校長先生のたっての願いで、その穴埋め先生っていうか、そういうことで赴任しましたんで、言語教育そのものというのは全然関係無くって……。東成瀬小から西成瀬小への転任も自己都合で……。
児玉: なるほど、なるほど。じゃ、そういうこと[言語教育のこと]はあんまり知らないで。
佐藤: そうです。ただ、ここで小学校の6年間を過ごしてますから、そこで遠藤先生からいろいろ薫陶を受けただけです。東成瀬の小学校に行った時にも、先生達が[言葉遣いについて]非常に気をつけていらしたということは記憶していますが、言語教育そのものについてはほとんど、取り立ててやったということは無かったですね。戦争中で、他の研究会[体練科研究会、軍人後援研究会など]が多かったのです。
児玉: 実際に西成瀬小にお越しになってみてですね、遠藤熊吉先生の授業っていうのは周りの先生方からどのような評判だったんですか。
佐藤: なんかね、私はもう空気みたいなもんで、全然意識しなかったですね。
児玉: ちょうど昨日、教え子さん達にも何人かお話を聞いたところ、遠藤先生は代用教員のような形でいろんなクラスにこう、自由に動き回っておられたと、1時間ずつね。それは、ほとんど丸一日、先生はいろんなクラスに行かれるという形だったんですか。
佐藤: いえ、私はね、1年生に入学した時から、1年間遠藤先生の受け持ちだったんです。ですから、そのあとはね、やはりそういう風にしてということを聞いていましたけれども、本当にずっと後になってから、遠藤先生が長い間ここで……。(笑)
児玉: [学校・クラスに]いるのが当たり前だったのですか。
佐藤: そうですね。1年生の時は。書道の方も教えに来て下さいました。6年生の時に、新聞社に出品するじょうふくなんかを教えに来ていただいて。6年生になってからは、書道の方を教えていただいた。
児玉: 達筆な方だったんですか。
佐藤: ええ、そうですね。遠藤先生はもう、書道・言語と両方素晴らしい方でしたので。放課後に勉強させてもらったんですよ。
児玉: [指導してもらったのは]先生方が、ですか。
佐藤: いえ、その時は私一人です。特別指導で、[新聞社に]出品するための指導だったんですね。そういうことで、あの、ですから、戦後、ここに来た2年間というのは、全然そういう言語教育を重点的に行っているという意識はなかったですね。ごく普通に、もうみんな標準語を使っているものと。言語教育そのものも、先生達は「何かやったかしら」で。本当に教えることも少ない、教科書も少ない。
児玉: ていうことはあれですかね。もちろん指導もきちんとあっただろうけれども、西成瀬の地区の方々が、そもそもこう、共通語的なお話し振りをもともとしておられたんですかね。
佐藤: そうですね。学校の中では普通に、標準語っていうか共通語を使ってましたから。放課後などの先生達の内輪の会話では、方言を使ったり、標準語と方言の混ざった会話になることもありましたが。これも無意識のうちにやっていたことです。
児玉: そうですか。私達は今回、遠藤熊吉生の授業っていうのがどういうものだったかを知りたいと思っているのですが、書き物としては何も残っていないものですから、まずは生徒さん達の記憶にですね、どういう授業だったんだろうかっていうのをお聞きしたところですね、たとえばいくつかの例が出てきました。一つは1年生を中心に持っていたと。要は「鉄は熱いうちに打て」で、1年生を中心に受け持っておられたということ。それから、もう一つはですね、発音の指導ですね。単語レベルでの発音の指導、「石」とか「椅子」の発音を問うっていうことをよくやった。それから、時々こう口の中に手を入れて舌の位置の確認をするようなことをやったと。で、あるいはですね、えーと、もう一つあったのは、教室の外でもあの、見つかったらですね、指導があったと。それであまりにも熱心なあまりにですね、買い物に出かけた先のそのお店屋さんのおばあさんにまでこう、やってた、「まんど」じゃなくて「まど(窓)」だっていったとかですね。そういう話まで出てきまして、とっても愉快で熱心な先生でいらしたことがね、分かるんですけども、それは子供達の記憶の中なんですけれども、遠藤先生の授業をご覧になった覚えはありますか。
佐藤: 授業は、そのものを私が受けましたので。全く、今おっしゃったように発音の指導ということで。
児玉: 教科書などは。
佐藤: 教科書は普通の教科書なんですよね。ええ、あの、昔の「ハナ、ハト、マメ、マス……」、そういったものでしたけれども。それはもちろんですけれども、やっぱり五十音のあ列、い列、う列、え列と、そのそれぞれの口形を徹底的にね。ですから、皆さんおっしゃっているんですけれども、やっぱり、いつも、あのポケットに石ころをひとつ入れておく。それから、あの、いつでも石と自分の靴を、こう教室の後ろの方に置くようにしてて、子供達にね、「石(いし)を持って来なさい」とか「椅子(いす)を持って来なさい」と言うんですよ。もう、1年生ですからめちゃくちゃですよね。石と言っても椅子を持って行ったり、椅子と言っても石を持って行ったり。そうすると、「これは石ですよ」「これは椅子ですよ」というようなことでね、そういう具体物で教えて下さった。もうひとつは、「つ」と「ち」ですが、靴ね、自分のスリッパ。それから、[口に指を当てて]口はこれでしょう。で、先生が「「くち」を持って来なさい」と言うのに、先生のスリッパを持って行くと、「これは靴(くつ)ですよ。口(くち)は持っていかれません」と答えることになっていました。そういう風に具体物で。
児玉: でもまあ、僕も教師してますんで皆さんも分かると思いますけど、まあ小学校なら45分とか50分の授業がありますよね。授業中、ずっと行っていたのですか。
佐藤: 取り立てて言うと、そういうことになりますけども。会話を主にして、あの、対話、会話ね。
児玉: こういう話もありましたね。全校の前で選ばれた2名が会話をさせられると。今日何食べてきたかとか、何して遊ぶかとかっていう、こういうことやったっていうんですけども。
佐藤: それはもう授業の中でも行っていました。あの、昨日のお話をしたくて、みんながね。先生が「昨日のことをお話しなさい」と言うが早いか、先生の口の先まで手をあげてね。それでその、「昨日、私は何々しました」ということをお話し、それを聞きながら、先生は、ちゃんとメモしていらっしゃるんですね。それで、いつもそういう風に、昨日のお話、ということから始まって。よく話してくれたというのでね、「ありがとう、ありがとう」と言って頭撫でてくれましたよ。そういうもんですから、本当に先生にお話することが大好きで、みんな我先にと、「昨日のお話」というとワァーッとみんな立ち上がりました。そして、また「誰かお友達を呼んでお話しなさい」と言うんですね。で、昨日一緒に遊んだ人を指名して、「昨日、何々して遊びましたよね」ということから始まって。ええ、記録していらしたんですね。そういう各学級の対話を取り立てて、全校生徒の前でもやったんですね。
児玉: だけどまあ、普通だとですね、そういう話の中で少し言葉、発音を直されたりするとですね、こう、なんかこう萎縮したりするもんじゃないですか。だけどそこがどうもね、子供達に聞くと確かに怖い先生だったっておっしゃる方が多いんですけども、言葉の指導について苦痛だったという感覚はないようなんですね。これはどういうことだったんでしょうね。
佐藤: そうですね。私は後でこの御本[遠藤熊吉の著書『言語教育の理論及び実際』]を見て分かったんですけれども、あの、子供達に何でもこう自分の言葉で話させる、その話を聞いて、どの子がどの音につまずいているかということを、みんな記録していた。それで、それをトータルで指導したり、個別には今度は口に指を入れたりして。子供達に話をさせることは、先生にとって、指導のための研究材料だったと思います。
児玉: まあその中で僕らも非常に興味を持ったことの一つがですね、「方言を直させられる」っていう感覚が子供の中にはあんまりないことなんですね。
佐藤: ないですね。
児玉: だから方言を直すんじゃなくて、「共通語はこういう風に言うんだよ」ていうことを新たにこう学んでいく学習だったと、自分の言葉が変えさせられる学習ではなくて、ていう風なことを言ってるんですけども、その辺は先生方としてはどうだったですかね。要するに、「この音は違うでしょ」って言うと、要するに方言はだめな言葉なんだっていう風にこう、なりそうなんですがね。
佐藤: 前にあの毎日新聞社の方が取材にいらした時に、お話したんですけれども、私は毎日いろいろあることなのでお話したら取り立ててくださって、あの新聞に載せてくださったんです。ごく一例ですが、大きな茶釜があって、お昼の時間にね、あの、先生がそのお湯を配るんですよ、お弁当を開いている机の間を歩きながら。で、その時に「お湯いりませんか、お湯いりませんか」って言って歩くんですね。子供達は「湯こけれ、湯こけれ」って。「しぇんしぇ(先生)、湯こけれー!」って言うわけですよね。みんな、そう言いますからね。「ああ、はいはい、分かりました」と言いながら、「今、お湯をくださいと言ったのですね、はいお湯をあげましょう」という風なかたちで話しかけて。特にこう直さないでね、子供達の言い方を言い換えて、たとえば「しぇんしぇ」と言ったのを「先生、と言ったのですね」という具合に。ですから全然、その……いろんなことをこうおしゃべりすることは苦痛ではないし、褒めてくださる、むしろ。
児玉: そこがやっぱり遠藤熊吉の特徴のひとつだと、僕らはまずひとつ感じたんです、昨日のお話ではね。あと、もうひとつはその、あの実際にやっぱり彼がやってみる、やってみせるっていうね。あの、要するに共通語で話してみせるって言うことをやりましたよね。で、その他の先生方はやっぱりそれ、遠藤熊吉のような指導を実際にやれたんでしょうかね。その辺はどうだったんですか。
佐藤: それは大変だったと思います。
児玉: あの、生徒達によるとね、カツ先生を含め何人かの女性の先生方はとてもきれいな言葉で話してくださったって、印象にものすごく強く残っておられるんですよ。でも、全部の先生がそうだったかっていうと、どうもそうではなかったっていうような。その辺はどうですかね。
佐藤: あの、一室に集まってね、遠藤先生が指導していらっしゃったことは、覚えています。
児玉: どんな指導だったですか、それは。
佐藤: やっぱり発音指導。
児玉: じゃ、もう生徒にするように、先生方にもこう練習してもらうっていう。
佐藤: そうなんですね。先生方からいつか、私、漏れ聞いたんですけれど、あの、小使室[用務員室]でね、もう、散々遠藤先生の悪口を言っていたと。厳しいとかね、嫌だとかね、言っておりましたので、かなりあの、先生方の研修もきつかったんでないでしょうか。
児玉: なんかその話はほっとする感じがしますね。その方がもう普通だなあっていう感じがしますね。そのくらいだから先生方にしてみると、西成瀬に来るとなんかすごく怖い、言葉の先生がいるっていう感じがあったんじゃないかって、僕なんか思うんですけれど、そうではなかったんですかね。他校から来られる時。
佐藤: そうですね、私はまだ1年生だったんで、全然それは分かんなかったんですね。ただ、5、6年になってからも、やっぱりこう、先生方の入れ替わりがあるもんですから、そういう研修はずっと続けられたと思うんですよ。そういう中でチラッとこう、「厳しい」とか「辛い」とかね、ええ。言ってるのは聞きました。
児玉: 分かりました。じゃちょっとまた後で、あの、少しお時間いただきますので。次はあの、お待たせしました、駒木先生に少しあのお聞きしたいんですけれども、遠藤熊吉先生は昭和27年にお亡くなりになってですね。で、その晩年、最晩年になりますか、もうあの、たまに学校にお越しになるとかっていうふうにこう、毎日ずっと常勤の形ではなかったっていうふうに生徒達は言ってるんですけれども、駒木先生なんかは、ですから、遠藤先生のことは、かなりこう遠い存在だったんではなかったかと思うんですけれども、昭和30年の頃。赴任なさった時、どういう話をしましたか。
駒木: 学校がね、あの、「言語教育の指導要綱」というか「指導計画」を作らなきゃなんないという。遠藤先生が亡くなられた数年後ですね。当時の先生方では頼りにされていたのは、低学年は木口わか子先生とかですね。それはただ発音練習の集会活動などを継続するとかね。朗読ならみんなが交代で指導するとかですね。こうやってきたんですけれども、県内一その、話し言葉教育とか、言語教育とかに関心が集まる中でね、この学校はこの学校らしい計画をきちんと持たなきゃいけないと。
児玉: 県の要請とか、市の、町の要請とか要望とか。
駒木: じゃないと思います。じゃなくてむしろ視察が来るとか、それから校長先生がですね、遠藤先生がいらっしゃる当時からの先生ですからね。あの、遠藤先生が亡くなったからといって、この教育の仕事を断絶させるわけにわいかないと。そういうことだったと思いますが、そういうことで。
児玉: 形として残そうと。
駒木: はい。
児玉: 言語要綱もさっき見せていただいたんですけれども、ちょっと今もって来ます、ちょっと御免なさい。ああすいません、お待たせしました。これですね。
駒木: ああそうです。
児玉: これが、さっき見せていただいたんですけれどもこれ発行年が書いてなかったんですよ。これはいつのものなのでしょう。
駒木: あのね、ちょうど昭和30年に赴任しましてね。で、これを作ったのが私なんですよ。
児玉: あ、そうなんですか。ああ良かった、これはありがたい。
駒木: 原稿は校長先生がお書きになって、こういう風に作りなさいと。
児玉: これの真似をして、じゃ。
駒木: これを、がりをきったのが私。こちらの原稿はおそらく木口先生がお書きになったもんだと思うんですが。
児玉: 要するに月別のカリキュラムですよね。
駒木: 2年生3年生の月別指導計画です。
児玉: これさっき見たときに1年生が無かったんですけれども、1年生が無いのに意味がありますか。
駒木: わかりません。私は原稿もらわなかったから。
児玉: ただそれだけですか。1年生は何か特別なことで、まだ文字も習得してないから特別な何かカリキュラムで自由にやってたなんていうことでもなくて。
駒木: おそらく想像されることはね、県国語教育研究会が27年に共通語指導のカリキュラムを作成し、それにもとづいて「ことばの本」を編集したのが28年だったようです。ですから、おそらく近藤国一先生などを通じてそういう資料などが届いたのではないかと僕は思うんですけどね。で、その具体的な学年別・月別の指導については木口先生を中心に進めようと。
児玉: 具体化したと。
駒木: はい。で、「こちらの方がお前は勉強になるから書きなさい」と。そういうことだったと思うんですけどね。その後校長先生に何度か呼ばれてね、勉強しろっていうことなんです。文案、形式も少し変わるんです。こんな形式に。で、ここんところは書かされてるです。ですから、やっぱりそういう時期ではなかったかと、今になって推測するんですけどね。
児玉: ていうことはあれですよね。その、遠藤熊吉先生はこういう書類の形でカリキュラムを作るとかってことはあまりなさらなかったんですね。
駒木: はい、あのそれも確かですけどね。昭和9年に、ちょっとお待ちいただけますか。
児玉: はい、どうぞどうぞ。ゆっくりどうぞ。
駒木: この本[遠藤熊吉の著書『言語教育の理論及び実際』]の中にね、ここに「附録」ってあるんですよ。「附録は雄勝郡西成瀬尋常高等小学校に於ける言語教育の要項を一瞥したものである」と。
児玉: 私も持っています。
駒木: これずっと読んでてね。これはね、昭和35年の年にね、ここに赴任した先生の、父親が教員でね。えー、父親がこの学校に参観に来たときにもらったものだと思われるということで、昭和9年の10月のね、「我が校言語教育」というプリントが残ってたんですよ。
児玉: 昭和9年ですね。
駒木: はい、昭和9年の。で、それを再版したのが、あの私たちの職員研修用に作ったものなんです。
児玉: ちょっと、ええ、すいません。
駒木: 昭和9年のプリントは学校に残っているはずなんですけど。
児玉: ちょっとまだ、そこまで調べが進んでいませんけども。ははぁー。
駒木: とにかく30年代というのは、伝統とは何か、どんなふうにしらたらいいのかっていうことを模索するというね。ずっと10年間、それの繰り返しでした【補足1】。
児玉: あの、僕はこの昭和30年代に、その西成瀬小学校のこう、更なる飛躍の土台があったとみてるんですよ。ていうふうになってるように思うのでね、ただその時にその遠藤熊吉先生の何をこう、継承なさったのか、何を継承することが可能だったのかっていうところが、もうひとつよく分からない。それで、あのカツ先生とのいろんなこう、女性の先生達がその、継続してやってこられた実践がこうあったけれども、刷り物としては残ってなくて、で、それを体系化しようと、たとえば駒木先生なんか含めた方がこうやってきちんとされてきたのかなあ、と思ったんですけど、一応こういう形であることはあったんですね。でも、これがそのまま要項に影響を与えたわけではないですよね。
駒木: はい。だからそういう要項はおそらく秋田市のねえ、そういうとこから取り入れた。いわば、近藤先生があの、遠藤先生のことを詳しくお調べになってね、まとめてくださった。で、私どもの研修でもそうした材料が勉強の材料だということもありますんでね。
児玉: 遠藤熊吉先生の時代はあまり指導案を書いたりね、カリキュラム表を作ったりっていうことは、必ずしもそんなに熱心でなかった時代じゃないですかね。昭和、大正の初め、昭和に入ってからじゃないですかね、少しずつそういうことが始まってきたのはね。
駒木: そうでしょうね。
児玉: うーん、なるほど。でもこれはちょっとまた後でゆっくり教えてください。昭和30年代の西成瀬小については。で、ま、さきほどあの、佐藤先生にお聞きしたことと同じようなことをお聞きしますけれども、駒木先生は、30年に西成瀬小にお越しになる前はどちらにお勤めだったんですか。
駒木: 羽後町の軽井沢小学校。
児玉: そこから西成瀬に2校目としてお越しになった。
駒木: そうです。
児玉: おいくつの時ですか。
駒木: 23才かな。
児玉: もう、若い。
駒木: いやあ、若いってね、私はもう旧制中学を中退しましてね、いろいろ事情がありまして現場に入ったもんですから。
児玉: それにしてもでも、一番こう、エネルギッシュにやれるいい時期に10年間。あのその前の学校から西成瀬小にって言われた時には、なにかこう西成瀬では言語教育がどうのこうの、あの遠藤熊吉がいるとかどうのこうのとか、そういうお話は事前にお聞きになっていたんですか。
駒木: いえ、全く。いや、それよりも家庭の事情がありまして、自宅から通える学校にと。そしたらね、あの当時の軽井沢小の教頭先生がね、「大変すばらしい学校なんだから、学校に行く前に校長先生に挨拶に寄った方がいい」とか「十文字なんだから、駅からおりたらまず挨拶して、よろしくって言うべきだ」と。ところがね、駅へおりたら行けなくなっちゃってね。で、「どうせ明日は学校へ伺うから」と、うん、そんなこともありましたね。とにかくその、「立派な学校だから」と、「しっかりやれよ」ということを言われてきた程度で。
児玉: 先生は、こう実際に赴任してみてですね。子供とか地域、保護者とかってのは、前の学校と違いましたか。
駒木: 全く違いました。
児玉: はぁ、そうですか。どういう違い、一番感じたのはどういう点だったですか。
駒木: 子供達がとっても明るくてね、素直でね、とっても優しかったんです。
児玉: ああ、そうですか。
駒木: はい。あの5年生、あの遠藤熊吉先生のお孫さんである博通君なども、5年生で。
児玉: なぜ西成瀬の子供とか地域っていうのは、そういう、ただの地域と違う特別な雰囲気を持ってたんでしょうかね。
駒木: いや、なぜでしょうね。少なくともよく話せるっていうね、先生とも友達同士でも……。
児玉: よくお話ができる。
駒木: 話ができるっていうことなんじゃないかと。
児玉: もとからそういうベースがあった。
駒木: あの、だから、授業が楽だったですね。何でも読ませても答えさせても対応してくれる。だから、軽井沢の子供と比べたらはるかに授業が楽しかったし楽でした。
児玉: 今で言うとたとえばほら、付属にね付属小学校なんかに行くと子供達が活発なので授業がやりやすいなんていいますけども、そういう力が、明るい元気な雰囲気が学校中にあったっていうことなんですね。
駒木: はい。赴任した当初の感想って言うと、そういうことになります。それからだんだん、難しくなったりね、それはそれは、長い間にはありましたけど。
児玉: でも、他校に比べるとそういう地域的な特性があったってことなんだな。いやあの、昨日お話を聞いた卒業生の皆さんによると、やっぱり自分達はちょっと他とは違うという意識をもっておられたようなんですよ。他の地域は、例えば言葉が汚いとかなんとかっていう思いを持っていて、自分達はそうでもないっていう。なるほど、分かりました。それで、えーと、そうですね、じゃ、ちょっといったんここで、駒木先生にはまたお休みいただいて、長岩先生に続けてお話を伺いしますが、長岩先生は、えーと、昭和54年に西成瀬小に赴任されたとのことですけど、何校目だったんですかね、西成瀬小学校は。
長岩: 私は西成瀬小学校の前は亀田小学校。
児玉: 亀田小学校、はい。
長岩: その前は平鹿町醍醐小学校。その前は雄勝郡の川連小学校、はい。それからその前は、増田町の小栗山小学校。その前は、雄物川中学校。まあそういう風に。
児玉: ていうことは、1、2、3、4、5校目。
長岩: その前はね、講師の時代でね。仙北の山の奥の学校など回って来たんです。大曲市四ツ屋小学校。大曲市中山小学校。西仙北町土川小学校。湯沢東小学校。西仙北町土川中学校。
児玉: えーと、西成瀬小の後はどちらにお勤めになったんですか?
長岩: どこにも行きません。13年ここでお世話になって……。
児玉: で、最後ここで定年。
長岩: そうです。はい。
児玉: そうですか、じゃ、最後の思い出の学校だったと。
長岩: そうなんです。
児玉: 少しお話を聞きますとこの、長岩先生のこの時代は、言語教育の方は長岩先生が一番中心になってこう、進めてこられたっていうようなこともお聞きしたんですけれども。あの、先生もあれですか、駒木先生同様西成瀬の子供について、他の地域と比べると特に西成瀬の地区の子供達の違いっていうのは感じましたでしょうか?
長岩: いや、私は亀田小学校から来ましたのでね。亀田小学校の子供ってのはねすごくなんていうかあの、元気がいいっていうかね。
児玉: やんちゃなんだ。
長岩: やんちゃって言えばいいか。集中力もすごくあってね。子供達が生き生きしていてあすこでは授業がやりやすいなと思っていたんです。それで、子供達もすごく発言もしますし、分からないことには「分からない」て聞ける子供達だったんですよね。で、ここに来ました時に、なんかそういう亀田の子供達からすると、静かで、静かでなんかうーん、別の言葉で言えば覇気に乏しいっていうか、そういう感じを受けました。うん、それでね、亀田小学校にいたときに西成瀬小学校から転勤されて亀田小学校においでになった先生がいらしたんです。そしたらね、亀田小学校の子供はいわゆる、あの、「ダジャグ」だって。分かりますか、先生。
児玉: いえ、分からない。
長岩: 乱暴、ていうかね、粗野だっていうかね。なんと西成瀬の子供達は上品だものねって、度々そう言っておられたんです。これは亀田小学校の子供達にも、子供達の保護者にも聞かせたくない言葉だな、と、私は思ってきました。
児玉: いや、それに似たような発言は、昨日少し聞いています。やっぱりそういう意味でも西成瀬は特殊であるというか、他とは違うんだという意識は持っておられるみたいですね。
長岩: でも、やっぱりあの、1年過ごして2年過ごしてきてるうちに、授業はしやすい。こっちの方が、ウンとこう意欲が湧いてきて、なんか子供達とぴったりくるところがいっぱいあったんですよ。
児玉: 素直なのかな。
長岩: 素直なんですね。そして保護者も非常に協力的でした。
児玉: 今回こういう調査ひとつとってもですね、地区の方がほんとに協力的で、文化的なことに関しても、ものすごく協力的な地区で、あの、ありがたいと思っています。
長岩: そうなんですね。私がここに赴任するために事前に挨拶に来た時に、校長さんにあの、「1年生を受け持ってもらいます」ということでしたので、「先生、1年生を受け持つとすれば、はじめに保護者の方に挨拶をすることになると思うんですけれども、どのようなことを話したらいいんでしょうね」って言ったら、「ここは昔から、言葉を大切にしてきた学校だから、そのことを保護者にもご協力お願いします、というようなことを一言、言っていただけばそれでいいです」というふうに言っていただいたんですね。校長さんも始めからそうおっしゃるということは、校長さんもここに熱をいれてきたことだなって。「保護者もすごくそのことに関心を持っていますからね」って、そうおっしゃってくださったんで、私も「そうか」と思いました。はい。
児玉: じゃ実際にまあいろんな指導をね、後で具体的なお話聞かせてもらいたいと思うんですけれども、授業なんかをやっても、ですから子供達はこう、のってやってくれるわけですよね。
長岩: そうなんです。そうです。
児玉: その辺がその、だから相乗効果って言いましょうか、教えたいことと学びたい子供の気持ちがピタッと合うっていうところがあったんでしょうね。
長岩: そうですね。うん。
児玉: だいぶ分かってきました。子供達にもやっぱり特別な意識がある。そのことが校風になって脈々と続いて、先生方もやっぱり来たら「ああ」っていうことでどんどんその感化されていくっていうようなね、システムていうか仕組みがあったわけですね。でも、それは駒木先生達が最初に作られたこう、きちんとした形がやっぱり大事だったんじゃないですかね。
駒木: いや、どうでしょうね。
長岩: 先生、幸いなことにですね、私がここの学校に赴任する前の前のその前。川連小学校で駒木先生と同職してるんです。
児玉: そうなんですか。
長岩: 駒木先生と同職してるんです。で、その前にいた小栗山。今はもうなくなってしまいましたけど、小栗山小学校にいた時に1年生を受け持たせてもらったんです。中学校からすぐ1年生だったんです。
児玉: それは、かなり大変だったですね。
長岩: 本当に大変だったんです。
児玉: 言葉が全然違いますからね。使う言葉が。
長岩: そうなんです。それで、一番まあ苦労したのは、ええと、どういう風に、たとえば、あいうえお五十音が読めて書けるようにするかってのが、私の一番の悩みだったんですよね。そして、悩んで悩んでいる時にね、西成瀬小で、自主公開だったかどうかは忘れてしまいましたけれども、あの、冬だったと思いますが、授業を見せてくれるっていうのがありまして、1年生の授業見せていただいたんです。読解の授業だったんですけれども、それから、一音一音を取り上げた授業も見せていただいたかな。その時に、これだっと思ったんです。一音を、一音を、一音を、という、そして一語をという、その言葉の意味は、私、分からなかったんですけれども、これを小栗山に行って持ち込めば絶対子供達に国語の初期の力をつけてやれる。そういう確信を持ったんです。で、そこでそれを誰にも教えられることもなく、テキストになる『文字の本』というものを一生懸命に読んだりしながら、授業に取り入れました。そこでやっぱり方言で話すことを十分にさせ、作文も子供達に方言も使いながら十分に書かせてみました。で、当時の教頭先生、横山先生っていう、ここの実践にたいへん関心持っておられる先生がいましてね、ここの学校に。
駒木: はい。
長岩: その先生にね、「長岩さん、あんたは、図工の先生だと思っていたけど、国語もやるんだな」と言われたんです。それから、斉藤純一郎先生っていう当時39才であそこの校長になった、斉藤純一郎先生が授業を見に来てくださって、「あそこまで、やってると思わなかったな」って。誉めたのか何か分からないけれども、私は良いようにとって、誉められたと思って、それでますます意欲を持って、あそこで4年間暮らしたんです。あの時ここに来てあの授業見せていただかなかったら、私はずっと悩んで、もう埋没してしまってたと思うんです。
駒木: その先生にはよ、私も随分、自信をつけてもらいました。あの、「小学校の国語教育をきちんとやれば、外国語教育はずっと楽になるな」って言ったんですよ。そういう誉め方されたのは初めてでね、そのあと10年くらい経ってからね、シンポジウムでそういう先生ともお会いしましたけど。
長岩: 純一郎先生は英語の先生なんですよね。
駒木: 英語の先生だったんですよ。
長岩: 秋田大学付属中学校に長年いましてね。
児玉: じゃ単なる読解だけでなくて、話す聞く生活っていうのをちゃんとベースに置いた方だったのですね。
長岩: そうです。うん、だからメカニズムもね、ちゃんと分かっていらっしゃるんですね。で、そのあとに駒木先生がいらっしゃる学校、川連の小学校に行って、駒木先生には「なんだ」ってと、思われたと思うんですけれども。随分、わけの分からないことを駒木先生にしゃべったりしていたんです。駒木先生からは授業過程など教わり、民間教育研修会とかいろんな所にレポート背負ったりして廻って歩く、そういう風に、私自身が変容していたんですね。
駒木: あの、私もね、ここにいるうちは西成瀬小学校のメンバーですけれどね、もうひとつは、どこにいてもサークルなんかに所属してね、もう一人の私がいるわけですよ。
児玉: たくさんそういう方いらっしゃるし、そういうのがないと教師って痩せていくんでね、必ず僕は必要だと思うんですけれど、じゃ、西成瀬におられる頃っていうのはあんまり、あのこっちに掛かりっきりでサークルの方はあまり熱心にできなかったって感じだったですか、先生にとっては。そうではなかったですか。両方こういい感じで。
駒木: いやいやいや西成瀬の後半はむしろそのサークルの人にも助けられて段々にということでね。むしろサークルの人が西成瀬の仕事に関心を持たれたっていうか。上村幸雄先生もわざわざ自前で秋田に来て音声学の講座をね、続けてくださったりね。
児玉: いや、もう30年代、40年代以降の西成瀬の指導っていうのは、本当にひとつの、システムとしてきっちりこうね、確立していく様が、僕らもこう資料見てるだけでよく分かって、ああ、これはすごいと思ってね。ただ、遠藤熊吉はきっとこうではなかっただろう、だからこれは明らかに後の人たちが新しく作り出し生み出したものだという風にね見てて、今日はそのあたりをきっちりお話を伺いに来たわけです。まあ、多分駒木先生は、いろんなとこでね、聞かれて同じ話ばっかりさせられて、申し訳ないんですけど、改めてちょっとお聞かせいただけたらと、思ってるんです。それで、その今の話で先生はサークルっていうところが起点になって、他校にうんぬんてことはありましたけども、その西成瀬のですね、教育っていうのかな、まあ例えばこのシステムもそうでしょうけど、必ずしもそう、他地域にぐんぐんと広まっていくものにはなれませんでしたよね。
駒木: はい。
児玉: これはその、やっぱり西成瀬だからできたという側面と、西成瀬以外でもできたんだろうけれども別の要因で、たとえばこれはもうやるのは結構大変だと、誰でもできるものではないんだと、維持していくのもね、施設も。だから広まらなかったとか、いろんなことが考えられると思いますけど、率直なところ、駒木先生なんかはその理由をどんなふうに、西成瀬のですね、ひとつのシステムがですね、他のところにもこうふわっとこう広がっていかない理由を、どんなふうにお考えですか。
駒木: ふわっと広がっていかないけれども、その時期時期にね、たとえば、増田小学校の柿崎勘右衛門先生がね、校長さん時代にお書きになった「木立」っていう文集にね、ちょっと載ってましたけど、あのやっぱりその「標準語教育、話し言葉の大事さ」についてね、寄稿していた増田小学校には遠藤先生がいらしゃったこともあります。それから駒形小でね、実践校ですけど、あの、なんだったかな、生徒指導だったかな、公開研究会のときにね、うん。「うちの学校は話し言葉指導について力を入れてるんだ、西成瀬以上だ、俺達は」と自慢していた。ここのように、ずっと何年も何年も続くような学校はまれだが、その西成瀬から行った先生がいたとか、西成瀬と同じようにやろうといったような活動が盛り上がった時期があったように思います。
児玉: 「先生が転勤した後そのクラブは弱くなる」みたいなことがあり、先生がいらっしゃる間はやれるけどっていうようなところ、それに比べて西成瀬は脈々と続いてきたっていうね。
長岩: 私が、いいですか。
児玉: どうぞ、どうぞ。
長岩: 私が川連から醍醐小学校に転勤した時に、西成瀬小学校に1年か2年ぐらい、いらした校長先生が、そこの校長先生だったんですよ。そこで私、あの時東北民間教育研究集会に行くために、校長先生ちょっと、こういう所に行くんですけれどもと申し出たんです。周りがちょっと厳しい職場だったんですよ。それでも、校長先生には分かってもらえると思ってましたので、ここにいらした先生ですからね、分かってもらえると思って、レポートを「こういうので行くのです。ご覧になってくださいますか」って出したんです。丁寧に見てくださったらしいんです。当時、醍醐小学校は、大きな文部省の公開とかなんかあった後で、先生方もだいぶお疲れのようにも見えましたし、子供達にもちょっとそういう感じが見受けられました。それで、生活がちょっと乱れている、そういうことを言えばちょっと失礼だけども、乱れてるんでないかなと思っていたんです。夏休みが終わって帰ってきたら校長に呼ばれたんです。校長先生が「難儀かけるけれども、これをここでやってけれ」って言うんです。私は、大変困りました。いやあ、赴任して間もないのに、この学校はベテラン揃い。国語のベテランと言われる方、何でもベテランの先生がいっぱい、もう自信満々の先生達がいらっしゃる中で私がね、そこに行ってそれをやるっということが、本当にどうしたらいいかと思ったんです。でも、「いろいろ考えることがあって」なんて言いわけしておことわりをしても「いい、分かった」って。「いいからやってけれ」ってそう言うもんで。レポートの一部を、ちょっとこの先生だったら協力してくれるな、という先生に、事の次第を話してこの次の週からやるんだからよく見て、「だめなところはだめだと教えてもらいたい」ということを言っておいて、全校の前でやったんです。フラッシュカードみたいなのを作ったりして。子供達ノッてくるんですよね、全校。全校が。それで、特に発音のいい子供さんがいたので、一人で言わせたときに目立つんですよね。「わあ、山崎さん、あんた宝物持ってるねえ」って言うとね、その子はパーっと喜ぶんですよね。体で。そうするとね、それを見てる受け持ちの先生、「あの子供、大変乱暴で粗野で困ってる子供なんだ。先生あの言葉のおかげで大変よかった」って。
児玉: 自信になったんやな。
長岩: ああ、うん。ほめられること少なかったんです、その子供さん。私が「きれいな発音持ってるんだもんね」って言ったら、「んだが」とかって言って。他の先生の中では、組合の、平鹿支部の役員になっている先生達はなかなか厳しいんです。「アクセントだってあるべ」とかって真っ直ぐに言ってよこすんです。「アクセントだってあるべ」って。それをそのようにこうやって言うのは「邪道だ」って。バッチバチ言われたんです。でも私はそれはそれと割り切っていました。その点は十分にわかっていての仕事でしたから。
児玉: 大変でしたですね。
長岩: うん、校長さんも認めてくれてやってるんだから、と。中に「やっぱり大事なことだよね」と言ってくれる人もいまして、そういうこともありました。
児玉: 分かりました。だからその完全に西成瀬の実践が孤立していたわけではなくて、そこを巣立っていった先生達は、そこそこでやって来たし、見に来た先生が刺激を受けて持ち帰ってやるっていうなこともやっぱりあったわけですね。
駒木: あったですね、それは。
佐藤: それはあったと思います。あの本当にずっと県北とか他県から来た方達が、この集落周辺の学校に赴任してやっぱり「言葉がきれいだ」って言ったと。西成瀬のようにはいかなかったかもしれないですけれども、東成瀬も駒形小、三梨小、川連小ってありますね。そこが皆ね、よそから来た人が「言葉がきれいだ」って言ってたんですよね。発音ですね、ええ。ですからあの、まあ、私は6年間ここで学んだわけですけども、子供としてね、毎日のように先生達の見学があるんですものね。よそからの。
児玉: そうですか。毎日ように。
佐藤: 毎日のようにあるんですよね。ええ、私の記憶では本当にしょっちゅうありましたね。ええ、でその度にやっぱり研修していかれるでしょうし、遠藤先生があの、音楽室にね私らみたいなのを呼ぶんですよ、授業中にちょっと来いって。来校された先生達の見守る前で話をさせられたり朗読をさせられたりしました。そしてさらにはあの、バスでね、近辺の学校に何人か、朗読する者、対話する者、独話する者という、子供達を連れてバスで行ったりしましたので【補足1】、それはかなりこの周辺の学校は、ここで研究した先生達が各学校に行って普及したということと相まってね、それはかなり周辺への影響は大きかったです。
児玉: それ[周辺の学校への影響]はまだほとんど明らかになってない……。
佐藤: 私は増田中から稲川町の古四王中学校へ転任し、あの、それであの私はその後小学校に回りましたけれども、そこで必ず1年生を担任させられるんです、小学校では。やはりあの、西成瀬小学校でいろいろやった方達っていうのは低学年に配置されて、やっぱり1年生の。で、私はそっくりそのまま遠藤先生の真似をしました。そうすると、きれいな言葉になるんですよね。よそから突然来た人が「東京の子供達が来て遊んでいるのかと思った」って言うんです。それくらい、やっぱりこう、普及したっていうことがあると思います。私の時代はあの、吉乃鉱山がありましてね、東京の方からそれこそ標準語のきれいな子供達がたくさん居ましたので、その影響もあって、耳から入ったものと、遠藤先生から指導されたものとが一致してね。方言もすごく多岐にわたっていましたので、遠藤先生そういう点では、もう非常に研究材料にはなったと思いますね。発声そのものも違うっていう感じがしたんですよね、東京の人たちは、ええ。そこ[東京の人たちと同じように発音すること]までは、遠藤先生は言いませんでした。先生は大きな声で話させるとかね、そういう指導でした。私は発声そのものが違うと感じたんです、東京の人たちのね。どうやればね、あんなにきれいな発音ができるかっていうことは、耳学問だったんですね。ええ、そういうことでやっぱり、周辺の学校はかなり影響を受けて、いい言葉を使ったと思います。県の教育界でも私の記憶ではよそに行ってからここで二度ほど言語教育の研究会やってるんですよね。そのときに私来てね、もう本当にあの、土台を作ってくださったり継承してくださった先生達のご苦労が分かりました。研究会に来てみたら、どんどんどんどん良くなっていった。遠藤先生の教えたものがさらに磨かれてるって感じでしたね。やっぱり継承してくださった方達が大きな力になって、伝統の学校だということで、誇りもありましたでしょうし。
児玉: でしょうね。もうなんかもう、守るってことが使命になっていたっていう形で。僕もひとつそのずっと気になっていることは、やっぱり吉乃鉱山の問題で、調べてみますと昭和10年代の後半あたりに、吉乃鉱山は従業員のピークを迎えるんですよ。その時がおそらくこの西成瀬や十文字の一番華やかな栄えた時だと。で子供の話からしてもですね、文化祭にブラスバンドが来たとかですね、要するに文化がどんどん、テレビもまだなかった時代なのに次々とやって来たと。そのことはやっぱり西成瀬の教育を語る時にどうしても、もう半分のね、つまり教師の頑張りと、そして受け止める子供達の特別性って言いますかね、状況っていうのはこの二つがうまくこう調和したところに、西成瀬の共通語教育の花が咲いたんじゃないかと、こう思うんですね。ま、現代はもう吉乃鉱山はありませんけれども、そこにいる人たちの思いがこう、思いって言いましょうか、気質って言いましょうかね。西成瀬気質っていうのがずっとこう残ったんじゃないかと思うんですけれども。当時ね、その東京を含めていろんな地区からの子供が来てたわけですか。
佐藤: ええ。
児玉: この東北だけじゃないんですか。
佐藤: ええ。
児玉: 東北だけではなくて。
佐藤: ええ。東北だけじゃないですよね。
児玉: 東京からは本社の事務の……。
佐藤: 役宅って言うんですよ。役員住宅ね。中央から来た方がね。お入りになって。社長、課長クラスね。社長、課長クラスがあの、東京から来てね【補足3】。
児玉: また帰っちゃうんですね。そうでもないんですか。
佐藤: やっぱり出入りはありました。
児玉: あと鉱山のその炭鉱夫として全国をいろいろ廻ってくる方も……。
佐藤: ここら辺の人達も。
児玉: ああ、この辺の人達も農業をしながら炭鉱の仕事もすると。従業員の数の中には地元の人もたくさん入ってるんですね。
佐藤: そうですね。
児玉: 全部よそから来られたわけじゃないんですね。
佐藤: はい。
児玉: で、まあ僕も転校いくつかしたことがあるんで分かるんですけれども、やっぱり転校していったらその土地の言葉に頑張って馴染もうとしますよね、子供はね。たとえば、大阪から来た子であっても、ここにいれば大阪弁を出したらいじめられるんじゃないかってなりますよね。そういうこう、他地域来た子がその、秋田の言葉に馴染もうとしてる様子ってのは、何かお感じになったことありますか。あんまりないですか、もう自然に秋田の言葉をみんながしゃべってましたか。
佐藤: そうですね、どうだったでしょうね。
児玉: あんまりその辺は意識がないですか。
佐藤: 気にならなかったですね。ただあの特定の言葉の、母親や父親の呼び方がいろいろあって、それで驚いたことありますけども。
児玉: お父ちゃんお母ちゃんって。
佐藤: パパ、ママからね、おっかやん、おとっちゃ。いろいろあるんでね、そういったことは、非常にあの遠藤先生は興味を持って、いろいろ採集しておりましたね。
児玉: そうなんですね。遠藤先生のご実家に今回調査に行って分かったことなんですが、遠藤先生はものすごく方言に興味がある先生で。
佐藤: ええ、そうなんです。
児玉: 方言をものすごく集めておられるし、当時の文献をものすごくいっぱい持ってる。本格的な本を持って勉強しておられるんですよ。
佐藤: そうなんですよね、ええ。私、女学校に行ってからもね、「夏休みにいろいろ方言を集めてきてくれるように」って遠藤先生から頼まれてね。増田に行きますとやっぱり、女学校は方々から集まってきますので、いろんな方言が集まるわけですね。どういう言葉使っていたかね、「夏休みに書いてきてくれ」って言うので、書いて遠藤先生にお届けしたことあるんです。
児玉: さっき僕がお話した、生徒達のお話の中で印象的だったって申し上げたんだけど、遠藤先生は決してその方言をね、矯正するとか変えようと思ってた気はどうもなさそうなんですよ。それとはもうひとつ別の言葉を習得してもらおうと、別のことを身に付けてもらおうという意識がものすごく強かったみたいで。
佐藤: ですから、普段の生活では、方言は自由に使っていいんだと。で、よそに行って困らないようにということで、それはやっぱり標準語がなければと【補足4】。
児玉: その辺がね、ちょっと駒木先生とか長岩先生にお聞きしてみたいんですけど、ま、僕も国語科教育を専門にやってる者として、方言と共通語をきれいに使い分けるっていうのは、そんなに早い段階からはできないっていうことで、古い学習指導要領は4年生にあるんですよ。方言と共通語がですね。今は更にゆっくりになって5年生に上がりました。つまり、そのくらいの発達の段階で初めて方言と共通語がきれいにこう使い分け、意識の上でもですね、できるようになるってのがあるんで、むしろその下の段階だとですね、方言と共通語を使い分けなさいっていう指導は、うまくいくのかなと。むしろ「方言はだめですよ、共通語にしなさいよ」という指導の方がうまくいくんじゃないかと。まあ、ちょっと極端な言い方をしますとね、そういう風に思ったりもするんですよ、子供だからまず形からこうね、はめてしまえというような。それはでも、遠藤先生の方法ではどうもなかったんじゃないかと思うんですが、そのあたりのこうなんていうか、方言と共通語を子供達に導入するときの順番とかですね、意識のありようってのは、駒木先生、どんなもんだったんですかね。
駒木: いや、僕はね、3年目の年に1年生持ったんですよね。ところが僕の1年生は皆さんの学級とはとても比べられなかった、うまくいかないんですね。うまくいかないっていうのは、おそらくその、授業の時間にこう教えることってね、それは僕だってやったと思うんです。しかし、日常会話がね、きれいになっていないんだと思うんですよ、おそらく。だからね、話はするようになったと僕は思ってるんだけど、それがあの、木口わか子先生とかね、他の先生がお持ちになった学級と比べるとね。うん。
児玉: じゃ、その木口先生とかがお持ちになったクラスだと、休み時間の子供達の言葉もきれいだったわけですか。
駒木: まず先生の言葉がきれいですよ。子供と話すときも。
児玉: じゃ、その辺、長岩先生どうですか。難しい問題だと思うんですよ。つまり子供達ってそんなにね、明確に使い分けできるのはもうちょっと上にならなくてはいけないので、だから「授業中はこういうお話をしなさい、休み時間はいいんだよ」っていう風にしたほうがいいのかな、それとも「いや休み時間もちゃんと共通語でお話しするんだ」っていう風にしたほうが一年生にはいいのかっていうね、そのあたりなんですよね。実際にはどんな感じで指導したのですか。休み時間もやっぱりちゃんと共通語で話しなさいと。
長岩: いや、そういうことはしませんでしたね。授業中でもね、文字の本の中に犬がこう吠えてるところがあるでしょ。その絵を見て、「ここのお話してくれる?タダヨシさん」っていうと、「えんこよーなー」って。「えんこ」とは犬のことです。「えんこよー、ワー、ワーってさがんでだ」とかってそういう話。こう自由にさせて。そうすると「犬が」なんていう子もいるしね、うん。いろいろありました、1時間の中でも。犬が吠えてる絵を見ても、たっぷりそれで1時間しゃべって。私はだから授業の時にも「えんこって言うのではない」とかって、そんなこと言わないで、段々に子供の中から「犬がね」とかってしゃべる人が出てくると「あーあ」とこう言いながら、「僕もしゃべりて。もう1回しゃべりて。」とかって、それで「えんこ」が「犬」になったりして。休み時間なんかも自由に。
駒木: 僕なんかもね、教えることは一生懸命やりましたよ。ずっと40年、50年代も低学年の担任をかなりしましたから。だけど、そのなんていうかな、生活全体をこう、変えようなどというよりは、うん、しっかり発音教えることによってね、うん、文字の習得も作文もね、力が付くっていう風にこう、思ってました。
児玉: 今ちょっと難しい話聞いちゃって困らしちゃって申し訳ないです。分かりました。じゃ、後ですねえ、ちょっと[調査時に取材に来ていた]NHKの方がもし可能だったら当時の授業の様子をあの、黒板を背中にしてなんか簡単に再現してもらえないかとおっしゃってるんですけど、どんなもんでしょうかね。なんかこういう教科書とか、昔使われていた教材でもかまわないですし。まあ、導入の。
長岩: 導入の段階でではね、駒木先生に笑われたなと思ったけども。まず初めにお口の体操しましょうということでね、例えば、手でね、「お、え、お、え」とかってやってね、「お、え、お、え、お、え、はいっ」ってやるとね、子供達が「お、え、お、え」ってやるんです。「いい声が出ていますね」って言うと、なおさらいい声を出すようにして。あのね、うんと、ふにゃふにゃした声出しているうちはね、あのこう、なんでもこう前向きにならないと思って、これを私がこれ、子供達を集中させるために。それから自分の口の形をこう意識させるためにそんなことしてみたんです。「お、え、お、え」とかね。そういうのは、子供達は真剣に見てやるんです。
児玉: やるでしょうね。子供だったらね。
長岩: いやー恥ずかしい。その次何とやったか忘れてしまいましたよ。
児玉: 不十分なお話で申し訳ありませんでしたけども、また、あの改めて聞くことあるかもしれませんが、いったんここで休憩ということでさせてもらいますので、ありがとうございました。
駒木: いや本当にこちらこそありがとうございました。
児玉: 資料をお見せいただいたの、なんでしたっけね。付録じゃないかとおっしゃってたやつですね。あれよかったらコピーさせていただいてよろしいですか。
駒木: あ、これ、差し上げます。
児玉: いや、いや、とんでもない、とんでもない。コピーして今お返しします。
駒木: もう一部家にはあります。
児玉: じゃ、ありがとうございます。
北条: その資料については、駒木先生、遠藤熊吉の手書きの指導案がありそうだなって言ってたけど。
駒木: それがね、原本があると思ってあったんですが、学校にあるんですね。実は。
北条: ここにありそうなんだね。
駒木: うん、ここに、ある。これの原本がここに……。
児玉: だから、これは印刷なんで、これと同じものがあるんじゃないかっていうことですね。
駒木: いやいや、これは私たちの研修資料に作成した写しで後藤先生が作成したものですが。
児玉: でもね、先生。ここをこれを見るとね、方法が具体的にいくつか出てくるんですよ。
北条: だからこれが、遠藤熊吉が書いたのかなって聞いてるんですよ。
駒木: そうです。それは間違いない。
北条: 遠藤熊吉自身が書いたのか。
駒木: プリントのガリを切ったかどうか、それは分かりませんよね。でも昭和9年だから、代用教員として言語教育を担当していた時期です。しかも稿本「言語教育の理論及び実際」の「付録」とほぼ一致する内容に「系統表」などを加えてあるんです。
児玉: 分かりました。ところで、遠藤先生はどの辺りまで指導に出ていたのでしょうか。
長岩: どの辺りまで遠藤先生がご指導に出掛けられたものかなと思って調べてみましたら、湯沢女子小学校とか、弁天小学校とか、幡野小学校とか、稲庭小学校、駒形小学校、増田町内の学校は全部。もっともっとありそうでした。
児玉: そんなに出掛けておられるわけですか。
長岩: 私は湯沢女子小学校の卒業生ですので、受け持っていただいた先生はもちろん知り合いとか同級生もいるもので多くの人に当たって聞くことができました。随分、広く歩かれているんですよね。
【文字化:今村かほる】
【補足1】
 昭和30年代にどんな取組みをしたかは、研修の記録「話しことばの指導(1)(2)(3)」におおかた収録されています。
 特に34年3月刊の(1)は、それまでに伝統といわれてきたことを確かめながら自分たちの実態を見つめたり方法を模索したりしていた時期の記録です。
 (2)は、38年5月のまとめですが、遠藤先生の遺訓のうち、とくに入学時から、発音指導を、などに焦点をあて、読み書き全教科でという道とともに発音・文字・語イ・文法などについてとりたてて、順序だて教えたいものだと取り組みだした時期のものです。
 39年11月刊の(3)は、自主公開研究会を開くにあたって当時新しい試みとして実践していた全容を収録したものです。このころの試みは、やがて「にっぽんご5発音とローマ字」としてテキスト出版されたものがあったり、サークルの実践にかなりな影響を与えました。そうした試みはやがて教科書などにも部分部分が影響を見ることができました。これらの仕事をひたすら企画・運営してくださったのは後藤岩雄先生です。一人一人に声をかけながら結果や記録を丹念にガリを切って残してくださった先生でした。
 西成瀬小では「校報西小」という学校報を発行しつづけていましたが、昭和40年度には10回の連載で言語教育のねらい・内容・方法まで紹介し、地域・保護者の方々の理解と協力を求めるまでに高まりました。
 そして第2回の自主公開研究会が開かれました。
 「にっぽんご5発音とローマ字」が出版されることになったのは昭和41年のことです。西成瀬小を会場にして出版記念会が開かれました。
 私は40年3月に西成瀬小を離れ、川連小へ、次に三梨小と移りますが、西成瀬から学んだ発音が正確にできると文字の獲得も正確になること、共通語と方言の対比の中で子どもたちは音声への興味を高めるが、そのためには一時教科書を離れてテキストを準備した方がいいことなどを周囲に拡め、実践の仲間ができていきました。が単音とローマ字などになると初歩的な音声の知識も必要とすることから、「わかるけど」と避ける人も出てきました。しかし一般には、自由に主体的に読みとらせ発表させるとか、グループ活動を活発にして発表力を高めるなどに関心が向いていました。(駒木勝一)
【補足2】
 バスで周辺の学校訪問をしたことについて、忘れられないひとこまを補足します。
 旧湯沢市内の2校か3校に遠藤先生の引率で行きました。体育館の壇上へ先生の指示に従い、上がって行き、演ずるわけですが、2人の対話になると、当時はまだ上品な話し方に馴染みがなかったために、みんな一斉に笑うので立ち往生し、会話もなにもできなくなるわけです。どの学校も同じでした。
 すると遠藤先生は静かに「笑わないで…」と制して、みんなが笑う「ええ…」とか「そうでしたわねえ…」について、順々と説明してくださるのでした。そしてそのあとはみんなシーンとして聞いてくれました。(佐藤カツ)
【補足3】
 遠藤先生の言語教育が深く関わってのことと思われるのは、東京方面から来て、所長・課長クラスの役宅に入っていた選鉱課長宅へ度々招かれたこと、一人娘で一級下の子のお相手でした。奥さんからピアノ(当時は学校にも無かったが)を教えてもらったり、他の同級生と誕生日に招待されたり、孤独な娘さんにとっても幸せな事だったと思われます。(佐藤カツ)
【補足4】
 「方言と標準語を使い分ける」ということについて、当時の記憶を若干補足的に説明します。
(1) 学校での休み時間は方言でした。廊下、校庭など、先生や外来の方たちへは標準語がふつうだったようです。
(2) 帰宅してからの遊びはさまざま。同級の友だちとのごっこ遊び(ままごと、紙雛遊び、お客さんごっこ、お医者さんごっこ、など)は標準語でした。あらたまった気分になるからだったか。翌日の対話で、遠藤先生にお話する好材料、題材になりました。場所は男性独身者の寄宿する大きな合宿所。日中は誰もいない。たまに夜番の人が寝ている。磨きぬかれてピカピカの廊下。おどり場で精一杯あれこれを広げて遊んだ記憶があります。
(3) 同じ帰宅後でも異年齢の男女が入り混じっての戸外では大声の方言。1年生から高等科2年生もいる。鬼ごっこ、縄とび、馬っこ乗りなど。場所はいつも合宿所前の大きな栗の木の下で。「ジャンケンポン」は「ジャケンキッチキッチ」でした。
(4) 台町、二の台という山の上の長屋の子と平地の役宅の子供たちのけんかは、もちろん大声のお国ことばのののしり合い。時には石も飛んでくる。山の斜面と広い矢場などでのけんかの結末は見たことはありません。私はアダ名ではやしたてられるのでいち早く逃げ帰りましたので。
  (佐藤カツ)
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