ことば調査報告
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
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旧教員へのインタビュー(2)
語り手: 高橋 貞氏 (以下、高橋貞) S.22〜36在職
  高橋定市氏 (以下、高橋定) S.24〜34
S.46〜50在職
  佐々木愛子氏(以下、佐々木) S.20〜50在職
聞き手: 今村かほる (以下、今村) 
調査風景

音声(抜粋)再生 文字化部分へ
今村: 昭和24年の当時っていうのは、まだ遠藤先生ご存命でしたよね。
高橋定: ご存命どころか一週間にいっぺんずつ指導を受けました。
今村: 一週間にいっぺんですか。
高橋定: 毎週土曜日。音楽室に集まってああやられたでしょ。
佐々木: 私は20年の年に赴任したから終戦後すぐ。
高橋定: やられた?
佐々木: そう、すぐ。
今村: はぁー、音楽室に集まってですか。
佐々木: 私たちは1年生の教室に移動しました。
今村: 佐々木先生は1年生の教室。はぁ、そうですか順番にすみません。
高橋定: 土曜日の午後ですよ。子供たちが帰ってから。先生方の研修。
今村: 先生方の研修。これは本当にもう先生方だけってことですか。
高橋定: 先生方だけ。
今村: はぁー、そうなんですか。それは先生方全員なんですか。
高橋定: はい、全員です。
今村: そうですか。
高橋定: 大変辛かったんです。それが。最初私24年の4月から来たんですけどね。東京から来てここへ始めて赴任したんですけどね。そしたら一人ずつなんだか発音させられて、一番言葉悪いのあんたですって。それは生々しい記憶で残っています。
今村: そうですか。一人ずつ発音っていうのはどんなものを発音するわけですか。
高橋定: 一人ずつ、母音をまず言わされましたね。「あ」とか「い」とか一文字ずつね。でもその口形、口の形、口の形とかそのなんていいますか、声を出す場所ですね。のどから出すか、底から出すかとか何かいろんなことありましたけど、私は生まれてから初めてそんなの聞きましたから全然分からなかった。東京にずっと居りましたけども、東京に居った時代あの、東京弁使ったことがないんで、秋田弁だけで通してきたものですからね。全然悪いの当たり前ですよ。
今村: そうですか。
佐々木: 2学期になるとようやく落ち着きました。そんな中で、長身の遠藤先生が片手にステッキを持ってゆったりと校門に入ってこられる姿を見ると、職員室の先生方は皆緊張してお待ちしました。
今村: そうですか。佐々木先生は1年生の担任を持っておられて、遠藤先生も一緒に教室にさっきお入りになるっていうお話があったんですけど、遠藤先生が佐々木先生の授業の時とかにいらっしゃるんですか。
佐々木: 授業の時にもたまにいらっしゃる時もあります。1年生ということで。ですから本当に緊張に緊張でした。
今村: じゃ、いつもは授業にはいらっしゃらないんですけれども、指導にいらっしゃるんですか。
佐々木: そうです。
今村: 佐々木先生はどんな風に指導を受けられましたか。
佐々木: 昔からどの先生方もお分かりのようですけれども、まず教室に入ると、ポケットから石を出して「これなあに」と一人一人に言わせて、それからそばにある椅子を出して「石」と「椅子」の発音の仕方とか、それからアクセントとか、それから私初めて遠藤先生と会ったときに、「私は遠藤(※平板アクセントで発音)熊吉ではありません。遠藤(※頭高アクセントで発音)熊吉です」とおっしゃられました。そして、先生方の名前を「あなたは誰ですか」と言うと、「佐藤です」とか「加藤です」と言うと「はぁー」と言って「佐藤でなくて佐藤ですよ、佐藤ですよ」。「加藤でなくて加藤ですよ」とかってそういうふうに一人一人にご指導してくださいました。
今村: 先生方のお名前が多いんですか。
佐々木: ええ。
今村: そういうアクセント……。
佐々木: アクセントと発音と。
今村: 両方。そうですか。
佐々木: 私あの今泉でしたのでそしたら「今泉でなく今泉ですよ」とかって。そう言うと秋田にいた時に友達に「今泉さん」て言われたれたのを思い出しました。
今村: そうですか。指導を受けられたのは、高橋先生は毎週一回って仰いましたけど、佐々木先生はどんな日に。
佐々木: 毎週一回でした。
今村: 毎週一回。
高橋貞: 水曜日だったかな。水曜日。
佐々木: それから、私あの感心したのはある時に遠藤先生の息子さん、長男の方が、功先生と仰るんですけれども、職員室に居られた時に偶然に遠藤先生は指導の時間でいらっしゃったんですけれども、あの功先生が学校に用事があってきてたようです。そして、校長先生とお話ししている所へお父さん先生がいらしてそこで私たち仕事してましたけれども、親子の会話を聞いてびっくりしました。
今村: はい、それはどんな風だったんでしょうか?
佐々木: ちょっと全部は聞いてませんけれども、あまりあの親子のこういう農村地帯で標準語でお話しするなんてびっくりしてしまって、それであの聞いていましたら、「親父そう言ったってねえ」とかって言って、そうしたら遠藤先生は「君の言うこともわかるけどねえ」とかって言ってそういう風な会話をしていました。標準語でした親子で。それを聞いて本当にびっくりしました。
今村: 親子でも標準語でお話なさってたんですか。
佐々木: ええ。あとそこでずっと聞いてるわけにはいきませんから、自分の席を離れて感心したことが頭に残っています。
今村: そうですか。わかりました。貞先生にもお話を伺ってよろしいでしょうか。
高橋貞: はい、どうぞ。
今村: 先生はどんな思い出がおありになりますか。
高橋貞: 途中から入ったもんですからね。だけどやっぱり、詰め襟の服のポケットに石をたくさん入れておいて、そしてこれは「石ですか、椅子ですか」と一つ一つ直してくださって、母音なんかもね。「あ」から始まって「あ、い、う、え、お」の口形とか、のどの奥から声を出すとか。
今村: 昨日ちょっとお聞きしたら、生徒さん達は口の中に指を入れられたっていう風におっしゃってました。先生方はどうでしたか。
高橋貞: やっぱりそうでした。口の中に手を入れるのは、ちょっと、はっきりしない場合には「こうですよ」といって入れましたね。
高橋定: 奥に入れさせられたんですよ。
高橋貞: 「のどの奥に手を入れて」ってね。
高橋定: のどのここらへんまで「がー」っと入れて、「今の声はどこから出ましたか」なんてね。それから、「しゃべったのは鼻に抜けましたか」「口から出ましたか」なんて言われまして、そんなこと分かるはずないですよ。
今村: はー、そうなんですか。指をやっぱり入れたりとかも。先生が口の中に指を入れたってことありましたか。それとも自分で。
高橋貞: 先生が入れるの。あの、アクセントとか違ったり口形が違ったりしていると、こういう風に自分で手を入れて、「舌はこう、どこにつければいい」とかそういうことを教えてくれました。
今村: 教科書の読み方とかそういうことについても指導はありましたか。
高橋貞: それは月曜日でした。まず第一、授業が始まると黒板の右側に母音の口形がどこの教室にも貼られていて、その「あ、い、う」を練習してその後に「あいうえおの歌」をうたって、各教室からきれいに聞こえてきたのを未だに私は、思い出します。赴任してきた頃ですから驚いたというか、発音が良いからかそれとも動作か、声もきれいでした。西成瀬小の子供たちは。合唱コンクールにも出たりしたようですし、「あいうえおの歌」も全校の生徒が朝の授業の始まりに歌いました。
今村: そうですか。
佐々木: それから会話、対話。対話ですね当番でね。対話とか会話とかあの、月曜日の朝の会が終わると、低学年の対話があって、各学年から2学級ある内の1学級ずつ当番でやりました。指導する先生が国語部の先生とか、たまには週番の先生が指導したりしました。そして、西成瀬出身の先生がいらしたので、とても参考になったし、お手本を示してくれて私たちは助かりました。なるほど、西小の先生たちだなと。
今村: 先生方でもやっぱりそういう風に思われるんですか。西成瀬の出身の先生は発音が違うっていう風な思いがおありでしたか。
佐々木: 吉乃鉱山がありましたから。都会から来た子供たちがいっしょだったから。ある一つの部落なんか奥様たちも普段標準語でした。ですから私家庭訪問に行くのがとっても億劫でした。奥様たちの言葉がきれいで。
今村: そうでしたか。西成瀬に赴任しなさいって言われたときは正直どんなお気持ちだったかというのをお一人ずつ聞かせていただきたいんですけど。
高橋貞: 入ってくるまでは分かりませんでしたね。
佐々木: 私は分かっていました。
高橋定: 私は西成瀬なんて聞いたこともないから、東京からすぐ来たから分からないですよ。どういう地域なのか。
今村: 行きなさいって言われても知らなかったわけですか。
高橋定: 白紙で入ったですから。
今村: そうですか。
佐々木: 私はずっと本当に西山の方でした。そこからこんなに遠いところまで来たんですけれども、転勤するときに、視学官の先生に相談に行ったら「西成瀬小学校という所は言葉と書道で有名な学校だから、若いうちにそこで勉強してみませんか」と言われて、それで来て見ましたらその遠いこと遠いこと。
今村: そうですか。やっぱりここに来られたら、他の学校とは違いましたか。先生から見たときに他の小学校とは違うなというところはおありですか。
高橋貞: 子供達の言葉がきれいでしたね。
高橋定: それはもう。他の学校とはぜんぜん違いましたね。私はあの東京から来たんですけどもね。東京の学校そのものでした。ですから、全然田舎の学校へ行くんだなという感情は持たなかったです。
今村: それは言葉がそうだったんですか。それとも生活とか暮らしぶりがそうだったんですか。
高橋定: 生活ぶりはですね、あの、大きく分けて農村スタイルとそれから鉱山スタイル2つあるんですよ。で、人口の方は鉱山の方がずっと多かったですよ。ですから、鉱山というとほとんど共通語に近い言葉を話しますでしょう。ですから、エピソードとしてね、ある地域からここの学校へ遊びに来た大人の方が、外で遊んでた子供方に、「昼ママ食ったが?」と聞いたそうです。そしたら「お昼のご飯食べましたよ」と返事したそうですよね。それでびっくりして「あれっ」と思って黙って遊んでる所を聞いていたら、共通語で遊んでるっていうの。「こんな学校秋田にあるのかな」って、そんな話をしてましたけど。学校にいらしたお客さんの話ですけど。私もあのちょっと変な話ですけど、トイレに入っておった時にね、子供達がおしっこをしに来たでしょ。そしたら、やっぱり全然、方言使わないですね。お互いに話しても共通語で話しますけど。そういう風に共通語が生活化していましたね。勉強のための言葉ではなく。ですから、今日ここの方に4、5人会いましたけども、やっぱりいまだに言葉は普通の地域と違うんです、どこか。同じ方言使っても。
今村: そうですか。高橋先生は一回ここから離れてもう一度西成瀬に戻ってこられましたよね。最初に赴任した時ともう1度赴任した時とは、どうでしたか。遠藤先生がいらした時代とそれからもう亡くなってずいぶん経ってからっていう時代とは。
高橋定: ええ、同じことでしたね、あの、同じことってのは、たとえばほら、言葉の先生とか、それから朝の集会で、対話の練習とかそれから言葉の練習なんかやりましたけれども。そういうのがずっと歴代の先生方によって連綿として続いておりましたから、雰囲気としてはひとつも変わったところはなかったです。ずっと続けられていた。ですから、遠藤先生のその、指導そのものも偉大であったけれども、私はやっぱりいまだに、ずっと続けてこられた、歴代の先生方の努力というのは大変であったろうなぁと思いました。それで、私は10年くらいかな、朝のその会話とか対話の指導をやらされましたけどね、壇の上に学級から1人ずつこう、出して、そして「こういう言葉を言ってみなさい、こうですよ」と。全体の練習とか、そういうことをやりましたけれども、大変でした。自分の勉強をしなければならなくて、ええ、ですから「また遠藤先生に試されるなぁ」と思うというと、「こりゃ油断ならないなあ」と思ってね。
今村: 遠藤先生がなさってたようなやり方は、そのまま引き継がれたんでしょうか。
高橋定: 遠藤先生がやったやり方ですか。教育法ですか、指導法ですか。それは、やってなかったんじゃないですかね。
今村: 遠藤先生の指導法は、具体的にはさっきおっしゃったポケットから石を出したというようなことですか。
高橋定: 石を出したっていうのね。まぁ、ポケットにはあったんですけど、あの人は日常、石ころ入ってましたから。で、先生方には「これなんですか」なんて聞きませんでしたけども、廊下で会う子供には聞きました。それから、佐々木先生が1年生持っておった頃だと思いますけども、[佐々木先生に]24年の年はいましたか。
佐々木: 私は24年まで。
高橋定: ああ、そうすれば、その当時、来て、週に何回と来るんですよ。そして、先生方には土曜日だけでしたけれども、それから1年生だけなんですよ、教えてくれるのは。で、ポケットからこう石を出してね、「これなんですか」と。誰でも分かる。それから、座ってる椅子があるでしょ。そうすると、「これなんですか」「エス」「「エス」なんてのは変だなぁ、これとこれと同じものですか。違いますね。だけど、あんた方は言うのは黙って聞いてると同じに聞こえますよ」と。そういう指導をして、まぁ身辺からね、発音変えていくと言葉を変えていくと、そういうことじゃないかな、という感じがしましたね。それから、どこの教室にも言葉の表というのが書いてあって、「あいうえ」「あえ、あえ」なんだかなんていうの。
高橋貞: 「あえいおう」なんとかね。
高橋定: ええ、あれあるでしょ。あの表が貼ってあって、教室の前の黒板の横のところに、どこの級にいっても。それを朝、ホームルーム……。
佐々木: 授業前に。口形図を参考に発声練習をする。アイウエオの歌をうたう。
高橋定: 会の時にね、ええ、読むんです。自分も一緒になって読む。それから教室の後ろにはずっと鏡が貼ってあってね。後ろまで全部。
今村: 鏡がですか。
高橋定: ええ、全面鏡です。そして子供達が後ろの方行って、鏡の前で口形練習をするんですよ。
今村: 鏡の前で?
高橋定: ええ、ですから自分もよほど勉強をしないというと、変なことになっちゃってね、子供方に「ああ先生その発音はおかしいよ」なんてやられるんです。そういうふうに徹底していました。
今村: 遠藤先生がお亡くなりになってですね、遠藤先生と一緒に働かれたことがない方達とかも先生がもう一回戻って来られた時にはいらっしゃいましたよね。当然、同僚の先生達でその遠藤先生のやり方を知らない方達っていうのもいらっしゃいましたよね。
高橋定: ええ、それはもちろんそうですね。替わってしまえばね。
今村: そうですよね。その時はどんな風に指導されてたんでしょうか。
高橋定: やっぱりあの、なんて言いますか、全員が変わるわけじゃないでしょう?何人かがこう変わるもんだから、前からいる人が残るわけですよ。ですから変わらないんです。全然。
今村: じゃあ、その遠藤先生時代以外の方も、今先生が仰ったようなやり方をなさってたんですか。遠藤先生と同じ様なやり方でやってましたか。
高橋定: そうですね。やり方はここの学校が無くなるまではずうっと同じことをやっていました。あの、亡くなる前の年ですかね、ちょっとこう参観させてもらったんですけども、やっぱり頑張って言葉の先生テストなんてね、よくやったよ、この人と組んでね。
佐々木: 木口わか子先生という先生が、それこそ遠藤先生からご指導受けて、そして長く、27年間でしたっけか、勤務された先生で、ほんとに西小の為に頑張った先生がいらっしゃいますけれども、もう、遠藤先生の後を継いだって言っていいほどの方です。
今村: 遠藤先生が亡くなられてからも、口に手を入れてとかの指導はありましたか。
高橋貞: そんなことはなかったけれども、ただ、朝、朝会の時にやっぱり対話はね、しばらく続きましたね。生徒と生徒のお話、そういう対話ね。
今村: 対話は遠藤先生の時と同じように残ったんですか。
佐々木: ええ、残ったと思います、私は。1週間のうちに子供達に心に残ったこととか、楽しかったこととか、困ってあったこととか、「皆さんに話して聞かせたいことはないの?」という風にして、授業の一部に入れて。そうすると、子供たちが「私、こういうことあったよ」「こうだよ」と言うので、「それじゃあ、お話して」と。「1人でですか?」って言うと、「2人ですよ」と言って、その友達の2人が前に出て「あなたこうしましたよねー?」とかってこう、対話して、2組か3組のうちの話の内容の良いのとかを集会の時に、学級から出してお話しさせたり。
高橋定: 言葉だけじゃなくて、姿勢ね。
今村: 姿勢?
高橋定: ええ、姿勢が大変問題なんですよ。ですから、遠藤先生の姿勢素晴らしかったよね? 自転車に乗っている時であっても、決して前屈みになったり、横へ向いたりしないで、もう背がすっと棒のようにまっすぐになったまま自転車に乗って来るんですよ。歩く時ももちろんそうですけどもね。だから姿勢の良いところでないと良い言葉は出ないと、こういう形なんですよ。ですから、寝ころんでお話しをするとか、屈んで喋るとかというのは、本当の言葉は出ないのだという風なことをよく言っていました。ですから私は、あの先生のこういう風になった姿勢以外は見たことありません。ええ、本当に姿勢の良い方で、特に1週間に何回も学校へ来るたんびにね、うちで採れた柿とかりんごとか、かごに入れて背負って来てくれるんですよ。職員室の中に来て、お昼に先生方にご馳走するんですよ。雑論をこうする時でも[良い姿勢だった]。やっぱり、あの先生のはいわゆる東京弁とは違うんですよね、共通語ですから、東京弁は弁ですから、あぁ、だから東京弁は共通語ではありませんよ、こう言われました。私はね、ええ、東京で暮らした人で、あんたみたいに言葉の悪い人はいねぇな、なんて笑っていましたけれども、「いや私あの、東京弁使ったことないですー」って、「ああ、道理で」なんて笑っていましたけどもね。そういう風に、姿勢をとにかく、腹を伸ばすということが、やっぱり大事なんだそうですよ。ええ、やっぱりこんなことして喋ったってね、良い言葉出ないそうです。だから、姿勢と言語というのは、関連するっていうことをよく言いましたね。
高橋貞: 中学校が学校を作る間、小学校の教室、体育館を借りることになったとき、教室が足りなくなって、松組と桜組がいっしょになって50〜60人の子供が2学級合併していっぱい入ってね。
佐々木: あの頃はな、2学級であったから。あの、ほら今そんなこと言われないけれども朝鮮長屋なんてあって、私「アンテイジュン」という女の子と「イワモトコウジロウ」君という朝鮮の子供を担任しました。そして家庭訪問に行くと言葉が通じないので、そうすると「イワモトコウジロウ」君のお父さんが日本語話せるので、その方が私の担任しているお家に案内してくれました。そういうことも思い出されます。その子供もよく1年生のときの日本語が分からないのに、配給の靴がほしくて言う「先生、くつ(靴)」と言う言葉のアクセント、発音がきれいでした。
今村: それはやっぱり鉱山に来ていたんですか。
佐々木: ええ。
高橋貞: 私達は終戦後に来たからあまりそういう子供達とは会いませんでした。愛子先生の時代はこういう子供、長屋に住むんでいる子供が多かったのでしょうね。
今村: そうですか。
高橋貞: 鉱山でも役によって住むところが違ったものね。二の台とか大沢とかは役宅といって、あの会社で言えば上の人達の住んでいる役宅あたりは言葉が良かったね。東京と同じ「奥様おはようございます」とか「ごめんあそばせ」とかそういう言葉でしたね。
今村: じゃ、役宅の言葉はやっぱり先生方から見ても違ってたんじゃないですか。
佐々木: 違ってます。ほんとに私達、私のような者がお話していいか悪いか恥ずかしくて。
今村: そんなに違うんですか。
高橋貞: 東京の方が来ているんですもの。
佐々木: 集まっているから、ええ。
今村: 先生方が受け持たれたクラスにその役宅の子供さんて何人ぐらいいらっしゃるんですか。
佐々木: 4、5人おります。そしたら、3年ばかり前に東京の杉並区に住んでいる「ヨシダマサオ」さんという方が私を訪ねて来てくれました。鉱山の、ええ、鉱山にいた方で1年生から2年生まで勉強したんだけれども、お父さん、親が転勤したもんだから西成瀬小学校見に来ましたと言って私を探しに来てくれて一緒に車で案内しました。そしたらこういう風に立派な学校になってたので「古い学校の写真ありませんか」と私に聞かれましてちょっとありましたのでそれ持たしてやったら喜んで、電話をくれたり、いまだに手紙をくれます、その方。会社を退職した記念にね。前にいた懐かしいところ秋田に来たいということで、うれしかったですほんとに。
今村: 遠藤先生の時にあった口形の絵とか五十音図とは別に、言葉の指導をした時に教材を作りましたか。
高橋貞: 口形なんてやっぱり書いた人いなかったね? 自分で覚えて、自分で指導する。当時は物も無かったでしょうし、そういう。
高橋定: あの先生は、あのう。
高橋貞: 書いたりしたの、持ってこなかったね。
高橋定: あの先生は他の先生方にも子供たちにも、とにかくパンフみたいなそんなものは紙1枚渡したことはありません。
高橋貞: んだから。
今村: 先生方も指導を受ける時は書いたものが無くて受けられましたか。
高橋貞: 無かった。だから、自分で「あ」なら「あ」の言葉を先生が見ていて、はい、「い」ですとか「う」ね、ちょっと違うとか、やっぱりそういう風に、だから何にも書いたようなものは貰ったことありません。
佐々木: 自分の身をもって。
高橋貞: 身をもって体験。
高橋定: ですからね、亡くなった時に、私まだここにおりましたからね、亡くなった時に、うちに行って、遠藤先生の遺稿を見せていただいたんですよ。そしたらほとんど書いたものはありません。ええ、まぁ光村って、ええ、あの教科書に[遠藤熊吉を教材に取り上げたものが]書かれたでしょ。あれぐらいじゃないかな。今、持ってますけども。あの、言語地図、あれっていうのも、自分でああいう風に立派にまとめたのじゃないからね。だから、立派な書いたものっていうのはほとんどありませんでした。あの先生の主義は経験学習主義なんです。ええ、経験学習、経験する、体験学習。今、言えばね。体験学習なんですよ。ええ、書いたもので勉強するんじゃないって、ええ、そうです。
今村: 先生方も教える時はそういう風になさってたわけですか。
高橋貞: そうです。1人ずつこう端からね。「今日は「あ」の勉強をしましょう」とか、そう言って、合格しないとね、何回も口の中に手入れて。
今村: 貞先生も生徒さんを教える時、1人ずつ言わせていくやり方をなさったんですか。
高橋貞: やっぱりそうです、「あいうえお」あ音とかってねぇ。
佐々木: 私は本当に発音が悪いと、それこそ大正生まれですから、そして言葉の悪い所から急に言葉のきれいな学校に来たもんですから、子供と一緒になって自分もきれいな言葉になりたいと思って、子供の身になって一緒に勉強しました。
今村: 先生方が西成瀬小から別の学校に移られた時に、ここでやっていたような発音の練習とか対話の練習とかはほかの学校でもなさいましたか。
高橋貞: やりませんでした。
今村: それはどうしてですか。
高橋貞: 今ここら辺は皆標準語ですもの。勉強の時は。ただ遊ぶときだけは方言使うけれども。
今村: 発話の練習とか対話の練習とか他の学校でなんでやらなかったっていうのはなぜですか。
高橋貞: やっぱり家庭の協力とか。ことばの指導をしていると、本の方が遅れちゃって、ねぇ。教科書の方が遅れちゃうじゃない。
佐々木: 私は対話はやりました。月曜日に「昨日の日曜日にどんなことありましたか」と言って、やっぱり日曜日の楽しかったこと、嬉しかったこと、困ったこととか、「皆さんに聞かせたいことあったらお話して」と言って、それで「あなたは1人でですか、それともお友達とですか」と聞くと、「誰それさんと誰それさんと遊んでてこんなことがありました」って言うから、「それじゃあ、そのお話をしてごらん」って言うと、「あなたはこうこうしましたよね? 私はそれをいじわるだと思って、困った顔したら、優しく声を掛けてくれたので仲直りをしました」とか、そういう風なものや、もっと大きな喧嘩をした話とかを、月曜日の朝に日曜日の出来事を発表させました。そうでないと、ここの学校と違って子供達、無言。お話ししないんです。
高橋貞: 愛子先生は分校に行ったから。ここの学校の分校。だから、もう流れが1つだからたぶん出来たの。よその学校ではなく分校だったから。それで、そういうことも出来たの。私達みたいによその学校にドーンと行くのと違って、指導できたと思いますね。
今村: やっぱりよその学校に移るとできないっていうのは、どうしてできないっていう風に思いましたか、貞先生。
高橋貞: やっぱり授業中は子供たちも標準語でしたよ、どこへ行っても。
今村: どこへ行っても?
高橋貞: ええ。
今村: じゃあ西成瀬の子供とあまり変わらなかったですか。
高橋貞: 遊ぶ時はね、だれそれとかって、君、さんをつけて呼んでいました。みな言葉よかったね、先生ね。
高橋定: あの、標準語というのはね、なんと言いますか、遠藤先生の話によるとやっぱりあの、基礎教育が大事なんでよ。その学校へ行くとがらりと変わっちゃうんですよ。共通語の真似なんです。真似。ですから同じ「あ」という1つ言うにしても、その「あ」が違うんです。舌の位置からね、「あ」を発音する時はね、舌の先はこうなって、音は鼻から出てとかね、いちいちあの基本的なことを教えられるでしょ。そういうことをここの学校では教えるわけですよ。ですから、子供が言う「う、お、う」って言ったって、向こうの方へ行くと「ヴー」って言うでしょ。ですから同じその共通語らしいことを勉強するんだけども、真似なんです。本物の共通語じゃない。よくここら辺のね、近辺ばかりじゃなくて県内はもちろん、長野県それから山梨県あたりから見学に来ました。我々の授業をね。ええ、見に来たんですよ。で、どういう風にすればあの共通語の教育が成り立つかという風なことで授業を見られたんですけども、やっぱりそういう風に基本が出来ていないというと共通語にはならないです。
今村: 授業を見学に来た時に、先生に見せる授業はどういう授業だったですか。「あいうえお」とか対話とか、どういう授業見せたんですか。
高橋定: いやいやいや、普通の授業ですよ。ええ、国語とか算数とかね、社会とか。
今村: 言葉の授業を見せるんじゃなくて、普通の授業の見学に来るんですか。
高橋貞: はい。そして、ある時には、全校集会として対話のやり方をお見せしたりとか、そういう風に。それから「あいうえお」の歌を歌ったり、そういうのも見せるわけです。
今村: じゃそういう特別なものも見に来るわけですね。
高橋貞: そうですね。
佐々木: やっぱり、対話はここの学校の特徴って言ったらいいか、伝統って言ったらいいか。それが素晴らしいので皆さん興味持って見て行かれました。
今村: 他の学校でそういう言葉の授業っていうかその、朝礼の時間とか別の所で、ここ西成瀬でやってたようなもののは、他の学校には無いんですか。でも、っき月曜日の朝やってたって仰ってましたよね。
高橋貞: ええ。
高橋定: おそらく特別言語教育なんてやってるのは、ここの学校だけじゃなかったでしょうかね。聞いたこと無いんですよ。
今村: 環境っていうのは、何が良かったんでしょうかね。
高橋貞: やっぱり村全体に、大半が疎開して来た。あの鉱山の人方のことも良かったんでしょうし、遠藤先生の頑張り方も、先生方もそれについていって。ねぇ?
高橋定: だから、遠藤先生の言語教育がここの村で成功したというのは、環境が良かったって。
高橋貞: やっぱり、普通のところに行って遠藤先生がいくら頑張っても、それはなかなか、浸透しなかったと思います。
今村: いろいろなところから子供が来てたから、ここで出来たっていうことですか。
高橋貞: 村をバックアップしてくれる、吉乃鉱山という大きな鉱山の協力があったから。ねぇ?
高橋定: だから、現にこう考えてみると、遠藤先生は湯沢の校長をやって最後辞めたわけですけどもね、湯沢でもどこでも熊吉先生が赴任した学校で、言語教育が成功するかというと、してないですよ。どこでも。どこでもやってないでしょ?
今村: やってないですか。
高橋定: ええ、言語教育なんてやってないと思います。聞いたことないです。
高橋貞: ですから、あんまり方言なんか、デタラメに使うとね、父兄から文句言われる。「先生の言葉は悪くてダメだから」って、父兄から文句言われるから、かなり緊張した1日を過ごして帰るんですよね。
今村: 西成瀬だと?
高橋貞: 先生方が。だから「(西成瀬の)学校行きたくねぇなあ」って。それは本音だったんですよ。
高橋定: ここの学校でなければやらなくてもいい特別の言語教育というのをやらなきゃならないもんですから、かなりの負担を感じたんじゃないかな。それが連綿として何10年も続いてきたっていう……。さっき私が言いましたその先生方の努力というのをね、素晴らしいと思いますよ。遠藤先生が亡くなったから「ああもう終わったな」といった空気はひとつも無かったんです。
今村: やらなきゃならないっていうのは、周りの親からそういうふうなことが要求としてあったということでしょうか。
高橋定: 父兄の環境、家庭の環境もそうだけども、学校ももう言語に関係した物だらけで。もう廊下といわず、教室といわず、体育館といわず、みんなその言語に関係した資料がベタベタと貼ってあってね。で、他の学校には絶対無いその物っていうのは、あれ、体育館の入り口に「言葉黒板」というのがあるんですよ。そういうタイトルがこう書いてあってね、そして毎週「今週練習する言葉」なんていうのがこれこれこれ、それからこういう言葉を言ってみましょうとか。早口言葉とかね、黒板の前で早口言葉をやってみましょうとか、そういういろんなのを書いて、体育館の入り口に貼ってあったんです。
今村: そういう、言葉の黒板っていうものに今週何をやりましょうとか決めるっていうのは、それはどういう方がなさるんですか。
高橋定: 教頭さんが書いたんでねぇが、あれ。
高橋貞: 教頭先生はずっと後から来た。
佐々木: 教頭先生ではなくて国語の先生方で。
今村: 国語の先生方ですか。
高橋定: 教頭先生の役目だような気がしたんでねぇが。
高橋貞: 教頭先生?
高橋定: 私2、3回しか書いたこと無いから。
佐々木: 国語の先生を中心に皆でやったと思うよ。国語主任の先生を先頭にして、皆で討議してその行事を決めたはずです。
高橋貞: だから、こう名前を見て見ますとね、本当に直接遠藤先生から直接訓等受けた人っていうと、私と(佐藤)カツ先生と。
高橋定: カツ先生、私と同職でしたもん。
今村: 言葉を直す時に、遠藤先生は「方言だから直しなさい」「あんまり方言は使わないように」とか言いましたか。
高橋貞: そんなことは言いません。ただ、「もう1回、言ってみてください」とかね。
高橋定: 「方言は悪い言葉だから使うな」とか「共通語は立派な良い言葉だから共通語にしましょう」なんてそんなこと一言も。
今村: 一言もなかったんですか。
佐々木: ええ、それはそうでしたね。
高橋定: あの先生のね、信念はね、その場に応じた言葉を使えるという人間を育成すると、こういうことです。ですから、方言が悪い言葉だというようなってことは、絶対言わなかったですよ。
今村: 先生方もそういう風に思って教育なさってきましたか。特に悪い言葉だから直そうとかって言うことは無くて。
高橋貞: はい。
高橋定: だからあの、教室で子供にこう対面してる時は共通語を使うんですけどね、職員室に戻って来て、休み時間にお茶を飲む時は共通語は使いません。それがあの場に応じた言葉の使い分けが出来るということなんで、ええ。教員室に戻ってきてからはね、共通語で話をして校門出るまでは共通語以外はだめですよなんて、そういう堅苦しい生活ではなかったんです。教員はね。子供は共通語だったんですけどね。
今村: 校長先生も遠藤先生がいらして指導することは協力的だったんですか。
高橋貞: そうです。一緒に、自分も一緒にやりましたよ。
今村: 先生方が、対話とか発音とかを生徒の前でして見せたことはおありですか。
高橋定: あ、それはねぇなぁ。それで不思議なことに、あれだったな、遠藤先生がいらっしゃるとき、職員室に戻って来て、お茶飲みながら方言で喋ってても、そこで自分があのお茶を飲んでいながらね、変な顔をして見るとか、そんなことなんかもなかったですよ、やっぱり。知らん振りして聞いてましたよ。ですから、今さっき言ったその場に応じたその言葉を使えと、使える人間にするというのが、先生の信念だったと私は思っています。だってしょっちゅう週に2、3回も来て職員室に座ってお茶飲んでるでしょう。その度に先生方に、「先生のお話は方言ですよ」なんて、言われたら大変だったですよ。
今村: 指導の時間だけって風に限って先生方にはあの発音の指導とか、そういうことをなさってたんですか。
高橋定: 大抵の先生方はそうしたんでしょう。それでも、とにかく子供たちにだけは共通語を徹底していましたからね。本当に徹底していましたよ。
高橋貞: あの私のいとこもこの学校卒業していますが、やっぱり言葉はきれいですね。それから、昨日いらっしゃった収入役さん。いらっしゃったんでしょう、佐藤邦夫さん。あの人なんかもお話させると立派だものね。きれいな。やっぱり、そういう場に出れば普通の人たちよりはみんな言葉がきれいです。身についているから。
今村: そうですか。
高橋定: 向こうに私の教え子がいますけど、何人かね、いますけど、あの連中で東京で生活した連中がいます。行ったとたんにね、「君どこの出身ですか」と言われて、「秋田県です」「へぇー、秋田の言葉、そういう言葉に変わちゃったんですか」って、びっくりされたと、そういう話しています。
今村: そうですか。
佐々木: テレビなどで60代70代の方で、あのお偉い方たちが、よく出られます政治の関係、議員とかなんかで。そういう方たちの言葉を聞いて、そしてこの西成瀬の70代の方の言葉を聞いて、全然違うの。それで私「ああ、西成瀬の方達は70過ぎた方達でもこんなきれいな言葉なんだな」と。私は遠藤先生から教わったんだけども、どうしても昔の言葉が全然直りません。今こうしゃべっていても恥ずかしいです。本当に。笑われます、娘もここの学校卒業したので。
今村: そうですか。
佐々木: 卒業生は発音がやっぱりきれいだし、アクセントが他の方達よりいくら70代になっても違う感じ。テレビではっきり分かりますね。先日増田の町会議員をやった方でよくテレビに出られるその方ももう70に近い方だけれども、本当に言葉がきれいで。ああ、とうれしい感じ。自分は直らないから、遠藤先生に申し訳なく思ってます。
今村: 長い間ありがとうございました。
【文字化:今村かほる】
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