ことば調査報告
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
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西成瀬小学校卒業生へのインタビュー(1)
語り手: 遠藤孝太郎氏(以下、遠藤孝) S.10卒業
  遠藤 弘氏 (以下、遠藤弘) S.11卒業
聞き手: 児玉 忠 (以下、児玉)
  今村かほる (以下、今村)
調査風景

音声(抜粋)再生 文字化部分へ
児玉: 西成瀬ではどんな言葉の指導がされていたんでしょうか。他の学校にはないような言葉の指導が西成瀬ではあったんですか。
遠藤孝: あったんです。
児玉: たとえばどんな指導だったんですか。そのあたり。まず、どんな授業だったのか、お話しいただけますか。
遠藤弘: いいですよ、かまいません。
児玉: 例えば教材って言いましょうか。教科書は特別なものはありましたか? 話し言葉でやるようなもの。
遠藤孝: 無かったですよ。あのいいですか?
児玉: はいどうぞ。
遠藤孝: 私は遠藤熊吉先生が代用教員で来た時の第一期生なんです。その前は、東成瀬の校長やっとったですから。遠藤熊吉先生というのは、この地元で生まれた方で、東京の方から来て最初先生になったのはここの西小であったから、やっぱり西小、俺たちの先輩方習ってるんですよ。うーん、だから鉱山とはあまり関係なく、標準語教育をしているんですね。俺たちの親だちもやっぱりあの共通語習ってますから。遠藤熊吉先生自体は鉱山に関係ないんで、共通語を前から教えた。
児玉: それはどういう場面で、教えること多かったですか? 例えば、教室に結構こう入ってこられたですか? あのクラスたくさんありますよね。これ600何人もいるクラスに1人で全部600人教えるのは難しいですよね。具体的には教室に実際来られるのですか。あと、皆の前でこう大きなグラウンドで皆を並ばして、こう授業なさったり。
遠藤孝: 様々あったですね。
児玉: ほう、様々ですか、ほう。
遠藤孝: だから、俺たちの時は校長先生やって来た方だから、代用教員とは言っても、言語指導の講座もすでにあって……。
児玉: あのー、専門の先生ってことで。
遠藤孝: そうそう。だから、1年生の担任専門であったですよ。
児玉: ほう、1年生だけを。
遠藤孝: うん、1番大切な言語教育の1番大切なことは年がいかない程いいっていうから、それで1年生の担任しとったです。
児玉: 担任をなさっていた。1年生は1クラスですか?
遠藤孝: そうそう。
児玉: でも男子クラス女子クラスって2つあったでしょ。他の教科も全部遠藤先生が教える……。
遠藤孝: やったですよ。
児玉: ほう、そういう担任として関わっておられた。
遠藤孝: 担任として。
児玉: ははぁー。
遠藤孝: そしてやっぱり言語教育は講堂に集めて全体教育としたし、その他の先生たちは方言でしょ。
児玉: ははぁー。
遠藤孝: 共通語、標準語なんてのは、遠藤熊吉先生のあれですから。先生たち自体がもう、困ってしまって。
児玉: じゃ、1年生で遠藤熊吉先生に習った子供たちは2年生以降は地元の普通の先生のクラスに入っていくわけですよね。
遠藤孝: そうそう。一般、2年生は別の先生。3年生は別の先生。
遠藤弘: 本当だが? 1年生習ったが?
遠藤孝: 習った。担任であった。
遠藤弘: 1年生担任で。
遠藤孝: うん、まるっきり1年生は。
児玉: じゃ、遠藤弘さんはその1年生の時だったですか? 同じように担任として遠藤熊吉先生がいたのは。1番印象に残ってるのはどんな授業でしたか?
遠藤弘: えっ?
児玉: どういう授業をどういうように……。
遠藤弘: 授業は普通だったんですけど、本当にあの発音関係は重視されだね。
児玉: 例えば、本を読んで。
遠藤弘: 発音、音声の出し方、舌のやり方そういうなことをね、「あ、い、う、え」ってよく。どうして私それ強調したいかと言いますと、この狙半内の方から来た人は、ズーズー弁ですよ。本当。吉乃鉱山に入っている人であれば、また津軽弁もあれば関西弁もある。
児玉: 関西弁もあるんですか。
遠藤弘: 混ざっているでしょう。だけども、発音そのものの発声は確かにいいんですよ。それに今度はここら辺の人たちが感化されていったんだよな。
児玉: はあはあ、なるほど。
遠藤弘: だから今の子供たちは黙っておっても、特別そういうのをしなくても、皆今標準語のように綺麗な言葉使うでしょう。そういう風にしていたもんだから、それで特に先生はそのとこに対してそういう教育した。
児玉: ははあ、じゃ地元の子を特に、いわゆるズーズー弁と呼ばれるものを少し直して指導を。
遠藤弘: そうそう。それを東京だがどこだかに行って、先生が「これではいかん」と。[村外に出れば言葉が通じなくて]うまくないということでやったらしいんだけどねえ、私はそう聞いていますけど。
児玉: じゃ、その他の、例えば関西弁とか津軽弁を話す子には、あんまり……。
遠藤弘: いや、やっぱりそれに対してもやりました。
遠藤孝: 子供だもんだから、関西弁もそれから津軽弁も皆ここの言葉で一緒に遊んでるもんだからすぐ同化して。
児玉: そういうもんですよね、言葉ってのは、そういうもんですよね、はい。
遠藤孝: やっぱりお互い共通語教育では泣かされた。
遠藤弘: それからひとつ大事なことだけど、私は、遠藤先生には大事なことだと思うんだけども、朝礼あるでしょ?
児玉: 朝礼。
遠藤弘: 朝礼の時に校長先生がいろいろやって、教頭先生があれこれ、あとから5分なり10分なり時間を置いて、発音練習したの。
児玉: はー、やっぱりそういうことやってるんだ、うん。
遠藤弘: 発音練習、というのは綺麗な人もおりますよ。ありますけれども全体で「はー」とか「ひー」とか「ふー」とか「くー」とか早く言うと濁るような所をやって、そして大体5分ないし10分ぐらいやった。それと全校生徒の前で対話。
遠藤孝: そうそう、対話。
遠藤弘: やらせた。対話。後からそれを修正してこれはこうですよって教えた。
児玉: 皆の前で2人を立たせてお話させる。
遠藤孝: 各学級から選ばれて。
児玉: ほう、どんな子が選ばれるんですか、それは。
遠藤孝: えっ?
児玉: どういう子が選ばれるんですか?
遠藤弘: どういう子? やっぱり……。
遠藤孝: うんうん、どんどん当たるですよ。
児玉: だれでも?
遠藤弘: うん、誰でも。
児玉: 今日はたまたまお前とお前だって……。
遠藤弘: そう。特別できる子とか、うん。
遠藤孝: 話の内容ってのは、「あなた昨日何をして遊びましたか」なんて、そういうやつなんですよ。
児玉: 「あなた昨日何をして遊びましたか」ですか。他にはどんなことをしゃべらされるんですか?
遠藤弘: やはり普通のことですよ。「昨日何をして遊びましたか」、「私こういうことをして遊びました」言うでしょう? [自分のことを]「俺」なんて言えば、そういう時は「わたくし」とか「わたし」と言うんだと。で、ここ[=西成瀬]ではパパとかママなんて言わないで、「ドド、ババ」なんて言ったでしょう。「それは母さんでしょう」っていうような直しながらやっていった。そして、2年になり3年になり、4年生ぐらいになったらほとんど標準語を使えるようになってきた。だから先生が、1年2年というのを担当した。2年は担当ということはないけども、言葉の方で担当してあったですね。ああいうところは「良くやったもんだな」と思いますよ。
遠藤孝: だから、学校ぐるみでやったんですよ。先生方、んだからよそから西成瀬小学校に転任っていうことをやると、泣いた女の先生もいるっていう。
遠藤弘: 本当。こないだ、こないだまであったんですよ。西成瀬小学校さ行きたくないって。
児玉: その辺もぜひね、お聞きしたかったことだったんですけども、やっぱり先生方にとっては……。
遠藤弘: 校長、今のその遠藤先生がおらなくてもね、やっぱり他から学習に来るでしょう? 先生方が。そのときにしゃべっていると「西成瀬小学校ってああいう言葉なのが」って言われたそうですよ。だから、ここの学校終わって転任していった先生方は、やはり行けばすぐその学校の主任、言語教育主任というような、うん。
児玉: そうですか。
遠藤孝: あれですよ。子供に指摘されるんですよ。生徒に「先生言葉が悪いです」なんてやられて。
遠藤弘: 子供たちにやられる。だから、ここさ赴任するということになったら、泣いたもんだって。うそでないと思いますよ。
児玉: いや、でもその辺に多分秘密があるんじゃないかと僕は思っていたのでやっぱりそうなんだなあってのは良く分かりました。どうしてそういうことが生まれたのかなあ……。まあ、じゃあ、後もうちょっと実際の指導の授業って言いましょうか、様子のこと教えていただきたいんですけれども。その対話、2人でこう皆の前で立たせてお話をさせるっているのはありますよね。それから授業の中でこう言ったらいい、それは違いますよって教えてもらって、本読みなんかでも、なんか指摘してくれるんですかねえ。それ以外にはどんな指導受けたのか覚えておられます?
遠藤孝: やっぱり、廊下から教員室に行ったときはもちろん標準語でやらなくちゃいけないけれども、遠藤熊吉先生なんかでは校門入ったらすぐ、やっぱり標準語なんですよ。出たら方言使うけども。あと、遊ぶとき体操場で、6年生高等科混ざって遊ぶときはもう、「んがー」「俺だ」なんてやるけれども、それでも先生いた所では標準語使わないと。
児玉: すぐ先生が、遠藤熊吉先生に限らずどの先生でも、こう「ばぁー」っと指示指導が入るという……。
遠藤孝: 厳格なのは、特に厳格なのは熊吉先生であったですよ。
児玉: だけどまあ、子供の立場に立ってみますとね、そういうのってのは「なんか怖いなあ」っていうかねぇ……。ですよねぇ。
遠藤弘: うちなんか本当見たくもなかった。
遠藤孝: 口に手を入れるんですよ。
児玉: 手を入れる?
遠藤孝: 廊下で学級に関係無く、あのそうそう。「し」の時は舌をどこに置くとか、「い」の時どうかと、本当に口の中に指を入れてこの舌の位置を、うん、やったですよ。
遠藤弘: 「あいうえお」の発音の中でも下と上とこうくっつけるというとか、何もないでしょう。「あいう」っていつも開いてるって、必ず開いてる音なんでしょう? それがくつがってしまうと「いぃ、いぃ」、「い」というのが「いぃ、いぃ」なんですよ。だから、そういうところはぱっとやられるんだよなぁ。
遠藤孝: ポケットによく持ってるのは、あのーどっちの手だかな? 胡桃2つ3つと石を持ってるんですね。「こりゃなんだ」って尋ねる。
児玉: ああ、で、ちゃんと石って言えるかどうかをすぐ試すわけ。
遠藤孝: 「えし」ってここで言ったら「いし、いし」って言うんですよ。それ川の石とか畑の石。それをほんとにこの「いし」と「えし」とは口の開き方が違うから。
遠藤弘: 「え」と「し」っていうのが、だから普通の場合であれば「いし、いし」っていうでしょ。それが「えし」でしょ。するとその発音の開け方やって口さ指入れて。
遠藤孝: して、廊下でやるですよ。遊んでる最中。
児玉: じゃ、ちょっと油断、おちおち遊んでもいられないですね。
遠藤弘: だからやっぱり嫌ったんだな。
児玉: まあ、でもそれは子供にしてみればねぇ。
遠藤弘: 正直な話、正直な話。
遠藤孝: 竹の長い鞭もってよう、「ばんばん」と机はたいてやるよ。
児玉: だから、僕はまあ、担任のクラスがそういう指導がうまくいくってのは分かるんだけれども、2年生以上になってもね、そのそういうことがちゃんと続くってのはどうしてなんだろうと思ってたら、やっぱりそういう風に他の学年はこう指突っ込んだり絶えずこうやっておられたと。
遠藤弘: だから私が言うように、3年4年生ぐらいになったらほとんどが言葉がもう標準語になってしまう。だから、他県に行っても、兵隊に行くというときも、やはり本当に楽したんだねぇ。うん、その言葉で。
児玉: 後になって分かるんですね。
遠藤弘: 私かなりあちこち歩いたけど言葉では苦労したこと無い。
児玉: あっそうですか。そうそう、先ほどほら東京の神田に、あっ違う違う。えーと……。
今村: ウズベクの方に。
児玉: ウズベクの方に兵隊さんに行かれたと。
遠藤弘: それから、私の場合は北海道の炭鉱。そして、囚人とか、それから今の韓国人、徴集徴用貢でまたでしょう。ああいう方々を使っておったんですよねぇ。
児玉: 今その兵隊の軍隊の時のお話をお聞きしましたけども、子供の頃はどうでした? 例えば5年生とか6年生ぐらいの頃ですね。他の地域と比べてやっぱり西成瀬は違うんだっていう思いはちっちゃい頃からありました?
遠藤孝: ありましたよ。
遠藤弘: 他から先生方が来るでしょう。すると、教室の中で皆がこうしててほら先生と授業やってるでしょう。そこにガラーとならんでねぇ、びっしり。そして聞いていると、私は1番背が大きかったから、後ろでしたから、先生がすぐいてね。こっち見てるのよね。見ながらその先生方はどういうこと言ったかっていうと「やっぱり違うな」と。
遠藤孝: うん、その通り。
遠藤弘: それから、だから「富士山」ていうね、山の富士の「富士山」。「ふ、ふ」って。「はぁー」って言うのをよく聞いたもんですよ。だから、先生の言葉より後ろの先生方が何しゃべってるかっていうことを聞いてたんで。だから、ほとんど、なんて言うかな、西成瀬の研修会だということになると、もうほんとにたいへんで、「またか」なんていう。先生方来るっていうと、掃除からなにやらもう。
児玉: はいはいはいはい、おもてなししなくちゃいけないし。
遠藤弘: そしてうん、窓拭きからな。
児玉: はい。じゃ、もうそんな頃からもういろんな人が見に来るような。
遠藤孝: そうそう、西成瀬集中であったですよ。
児玉: いや、その昭和30年代とかですね、戦後に入ってそういうことがあったっていうのはちょっと文献で見たんですけれども、それはもう昭和の初めからたくさんの人がこう、見に来て。
遠藤孝: 遠藤熊吉先生が言語教育をはじめてからなんだろうけれども、やはりあのー、あのね、学事区っていうのあったです。けれども、その子供たちともその、交流あるですよね「何大会」とかなんとか。そうすると、相手の学校に行って、廊下で子供やなんか会ってものしゃべるときは共通語使うでしょ? ここの学校のつもりで。すると、向こうの奴ら顔しかめちゃって、「西成瀬の子供たちとはものしゃべられねぇ」なんて、そういうことも。
遠藤弘: やはり一目二目置かれてたんだな。
遠藤孝: うん。
児玉: それは、でも、子供にとっては自信になったでしょうね。西成瀬であることって、その自慢ていうかね。
遠藤弘: よく、こういうふうに聞かれる場合にあることは、兵隊に行って、あるいは出稼ぎなんか行っても、言葉では苦労したことは無いなと。こんなことはないだろうなんてね。それで「どこに行っても言葉に不自由しなかった」と言うと「誰のお陰であったんだ」ってよく言われたんで。あの、まあ、遠藤先生がこういう風にして教育したからなんて、私、言ったことないんですけど。やはりロシア語覚えるにしても、[ロシア語にも方言が]いろいろあるねぇ。それから朝鮮語、満語、そういうようなものも、人を使うためには覚えなきゃできない[=覚えなければならない]。そうすると、その相手方の言葉を聞き取って、そしてそれをメモして、それを自分で寝ながらでも復習しました。
遠藤孝: ここの方言はズーズー弁なんですよね?
遠藤弘: そのズーズー弁だと、日本語を教える人が困るわけ。その人たちが言うには「遠藤さんは教えやすい[=教わっていてわかりやすい]」って言ったもんだ。私は自分で誉める訳じゃないんですけれども、やはりそれ[=言語教育]が身に付いていたもんだからできる訳よね。その時、特に言葉を作ってしゃべるわけなんで、だからそれが身に付いていたもんだから「ぽっぽっぽっぽ」と、こう[言葉が]出るわけよ。
遠藤孝: だからあのズーズー弁は、頭の中で抹消されてるもんだから。話の基本がこの標準語のアクセント、それから発声方法から、この口の開くのも、みんな研究されてるものは「す」が「す」、「し」が「し」でそれができてるものだから、どごの言葉でも順応できるんですよね。
児玉: うん、なるほど。
遠藤弘: この年になったからやっぱり遠藤先生のお陰だったべなぁというんで感謝するようになりました。今になって。
児玉: 当時はね。
遠藤孝: 俺たちはもうここの小学校を出て行った瞬間に、出て行ったらもうまるっきり感謝感激であったですよ。「お前本当に秋田の人間か?」なんて言われたもんですから。軍隊に行ってもよくやられたなぁ。「貴様だけその言葉どこで覚えた?」なんて逆に聞かれたり。
遠藤弘: あの言葉のお陰で本当に世渡りするには楽したなぁー。
児玉: でも、いや僕はもう1つ今日お聞きしてみたかったことはですね、まあ当時の授業のこともそうなんですが、保護者の方、今で言う父兄ですよね。学校の父兄たちもそのう、西成瀬の言葉の教育を応援したって言うんですよね。それってどういうことだったんですか?
遠藤弘: 特別なことはなかったんだろうけども、やっぱり応援したことなるんだね。
遠藤孝: 理解って言ったらいいかな。理解だな。やっぱり家へ帰ればもう方言、「ズーズー弁」でやっとったから。遠藤先生自体も、「お茶コ持って来い」なんて、奥さんに言っとったから、俺たちは家に帰ってから共通語なんか標準語なんか使ったら、逆に笑われたり。やはり、家に帰れば「ドド、アバ」で。
児玉: でも、その遠藤先生が代用教員に来る時も、やっぱり地元の人に呼ばれてきたっていう風に聞いてるんですよね。
遠藤孝: うん、そうですよねぇ。
児玉: ということは、地元の人たちがやっぱり遠藤先生にきてほしいと。
遠藤弘: うん。
児玉: 言葉の指導してほしいってことだったのかなぁ。そのへんが……。
遠藤孝: そうそう。
遠藤弘: 私、分かんねぇ。
遠藤孝: それの前にここの校長や西成瀬でずうっと先生やっとったもんですから。そして、ここの校長もやったし、そしてあの東成瀬でも校長やってるでしょう? 短い期間なんですよ。そしてすぐ西成瀬に帰ってきた。当時、代用教員ていうと若い先生方、教員になる前の先生方だったんだけど、遠藤熊吉先生は、もう校長の定年になってからの代用教員で、あれは特別だったと思います。その頃のことは分からないですけれども。
児玉: 代用教員としても、また1年生を中心に持って担任したわけ。
遠藤弘: 代用教員になったか。
遠藤孝: 代用教員だ、自分から代用教員「代教」って言ったもの。
児玉: その頃はおいくつぐらいだったんですかね、遠藤先生は。代用教員で。
遠藤弘: やはり定年終わった頃になるでしょうね。
児玉: 50いくつぐらいの。
遠藤孝: ここへ来てもやっぱり10年近く代教、代教やったんでねぇがなぁ。
遠藤弘: なんぼで亡くなった?
遠藤孝: さて今は分からない。長生きした。80、90近かったんでねぇがなぁ。して、代教辞めてからもここの学校に来て先生方の教育をした。
遠藤弘: そうそう。
遠藤孝: 先生方を教育したんです。
児玉: ていう所も読んで知ってるんですけれども、どんなことなさってたんですかね。生徒の立場では分かりにくいかもしれませんけど、遠藤先生は先生方にどんな指導をしてたんですかねぇ? 授業のやり方でも教えてたんですか?
遠藤孝: 先生方にも言葉のことばっかしだったですよ。言語教育のことばっかり。
遠藤弘: あなた、高田校長先生だったんだ。
遠藤孝: うん。西成瀬に来る先生方、やっぱりさっき言った通り。あの、なんていったらいいんでしょう? 理解ある先生方が来たって言うのかなぁ。そういうまず自然の環境あったんじゃないんでしょうか。誰も言語教育に対して担任の先生がとやかく言ったことは無いもん。
今村: あのー、さっきのお話の中で朝礼とかが終わった後に生徒さんがお話するっていう、対話とか発音の練習するってあったんですけど、それを遠藤先生以外の他の先生がですね、こう模範のような発音するとかいうようなことはあったんですか? 生徒以外の先生がっていうことは、それはやっぱりなかったんですか?
遠藤孝: 先生あれ、教室だけのあれで対話の時は遠藤熊吉先生が何年生から何人出してっていうのをやったと思うんだな。職員会議でやってるな。
遠藤弘: 私は覚えないんだけどなあ。
今村: じゃ、遠藤先生以外の先生が、これが模範ですっていうのを生徒さんに見せるってことは、なかったんですか?
遠藤弘: 私は記憶にないねぇ。
今村: ああ、そうですか。じゃ特にその言葉の教育っていうのは、一年生が遠藤が担任を持ってずうっとっていうのはあったと思うんですけれども、上の学年になってきた時に、特に「こうです。こうです」て遠藤先生がしたような特別な言葉の指導っていうのは他の先生はしなかったんですか?
遠藤弘: たまにある。各学年を廻って。
今村: 遠藤先生がそれはするんですか?
遠藤弘: そうそう。
今村: 遠藤先生以外の先生からそういう注意を受けたことはありますか?
遠藤弘: そういうことは、私は記憶にないねぇ。
今村: ないんですか。
遠藤弘: だからさっき言いました、あの講堂の中での話、対話のことあって、その他に今度は遠藤先生が自分から、発音練習やる。その時に、お宅さんがお話するのは、あれでしょう。他の先生が変わってやるようなことがあったかって言うんでしょう。先生いない時やらなかったな。私たち。先生が入ってこない時は。
今村: じゃあ、専ら遠藤先生がそういう風に教えるところを他の先生は見ていたんですか?
遠藤弘: 見ている。
遠藤孝: その場合はね、教室におった時は、あの標準語というのはここの学校の校風であったもんだから、なら先生は極力生徒にやらせるには方言いれないで、あのー標準語でしゃべっとる。
遠藤弘: そういう風にしてやっておいても、今1年生が担任であっても3年5年といるでしょ。そういうような場合は時間的な、確か時間割しておったと思いますよ。何時から何時までの時間は、何時間目は遠藤先生が来てやるがらとかっていうようなことがあって、書道も書なんかもねそういう風なことはあったと思いますよ。
児玉: 代用教員だから、結構自由に持てたんだね。いや、でももしそうだとしたら他の先生の時は全然でも怖くないじゃないですか。発音注意されないんだから。
遠藤弘: うん、もう怖くない。
児玉: 遠藤先生だけがこう、「来たぞー」って。
遠藤弘: だから、人間正直で遠藤先生が来るともう頭からピンとくるもんだから、もう言葉でも綺麗な言葉出そうとするでしょ。すると、口の中でこんがっちゃっておかしなことになってるんですよ。シャキーンなんてね。
遠藤孝: かなり厳しかったからな。
児玉: 600人の子供を1人の先生で皆こうピシッとやるというのはものすごい先生ですよね、考えたら。
遠藤孝: あれは、やっぱりあれだ、さっき言った通り校風になっているから先生方は皆努力してるんですよ。
遠藤弘: もう西に行ったらもう絶対に言葉で苦労するっていうこと、自分だぢでもやっぱり勉強したんでね? 先生方も。
遠藤孝: だから、俺たちはやっぱりあのー他の担任の先生方と会っても学校でしゃべるのは、共通語であったですよね。遠足の時は半分方言、半分共通語で。
児玉: その方が自然ですもんね。はい。
遠藤孝: 方言使っても特別叱らなかったですよ、先生方。場所次第であったから。
今村: じゃ、ちゃんとそこで標準語で話す時っていうのと、方言でいい時っていうことは、他の先生方もそれでいいっていう風に思っておられたんですか?
遠藤孝: もう学校でたら、もう境ないですよ。共通語と方言で。それから後は休み時間の、あれだ子供だち自由に遊ぶときだなぁ。うん。そういう時だけは方言使ってもいい。
今村: あのう、さっきのお話ですと遠藤孝太郎さんの、お父さんやお母さんですね。お母さんの時ですよね。も、そういう教育があったんじゃないかっていうお話ありましたよね。そういうことをあの、お母さんからとか聞いた覚えとかおありになりますか?
遠藤孝: あるです。そして俺たち2人は……。
遠藤弘: 家の母親もここの学校出たから、綺麗だったよ。
遠藤孝: やっぱり、よそからお客さん来た時なんか、したら玄関でしゃべるのも、もう標準語でしゃべったんですよ。ここ出た年寄り方は。
児玉: でも、どうして西成瀬だけうまくいったんですかね? 西成瀬だけでうまくいったんですかね? こういう共通語……。
遠藤孝: そうだな、そう言っていいな。
遠藤弘: だってお前なんだってそこに「カメダ」の小学校あるでしょう? 小栗山、今、東小と言いますけど、つながったでしょう? 川連どこの小学校だって話しておらなかった。それだけに西成瀬っていうの、「グー」っと、もうあまりにも単位が違うのよ。
児玉: ほかと違うんですね。
遠藤孝: 基本が違うの。
遠藤弘: だから、それが特にそういうような目立つような学校になったのは、やっぱり遠藤先生の功績だということがよく言われますけど、私はそう思わないけど。私の場合は先生さ申し訳ないけど自分の部落から出た先生だから。吉乃鉱山のそういう風な言葉の綺麗な人たちが、それに遠藤先生というのにまた1歩先んじた、そういう風に言葉の綺麗な人がおったもんだから、それに感化されてったって方が多いんじゃないかなと思うのは私の考えです。
児玉: 私も私もそう思います。多分そうだろうと思います。
遠藤孝: 私はちょっとそこのところ違うですねぇ。
児玉: そのへんはどうなんですか?
遠藤孝: まず、感化もあるかもしれない、無いっていうことは言わないけど、やっぱり遠藤熊吉先生の教育が。やはりあの東京で標準語の美しさを知ったって言うのを俺はそれが、ここの学校に来てそれをやるっていう「気」の「気構え」であったって事が俺は第一で……。
遠藤弘: それさマッチしていったからうまく言ったんじゃないですか。だから急に西小っていうのが、やはり注目されるような存在になったんじゃないですか?
児玉: 僕は両方あると思うんですよ。あのやっぱり西成瀬もそれを受け入れるっていうかね、遠藤先生の指導を受け入れるだけのやっぱり皆さんの能力もあったし、環境もあったと。
遠藤孝: 環境。だからあのほら結婚するにもまさか西成瀬小学校の人間同士ではね。よそからも来るでしょう。それはやっぱり西成瀬へ来ると、子供標準語使うとその母親、よそから来た母親もつれられて共通語使って、して自然と家庭の中でも標準語化して、ある程度標準化して叱らなかったですよ。いい言葉だっていうんで。うん。子供を理解して協力してくれたですよ。
遠藤弘: 頭悪いけど言葉は良かった方ですね。
遠藤孝: 言葉だけは全国共通だから。大切。
今村: あの、さっき、全国からいろいろな方言の人たちが集まってきて、子供ですから一緒に遊びますよね?で、そのとき標準語を話すっていうのは1人か2人だったってさっき聞いたんですけれども。
遠藤孝: うんうん。そうそうそう。
今村: そうですか。そういう時にこう地元のズーズー弁の子もいれば津軽弁の子供もいれば関西弁の子もいて、遊ぶ時ってみんなどんな言葉だったんですか? やっぱり皆その共通語のこの方がいいなと思うんですか?
遠藤孝: いやいやいや。
遠藤弘: まるっきりじゃねぇけど、いくらかはやっぱり影響したんでねぇか?いくらか影響してるよな?
遠藤孝: だから基本習ってるもんだから、東京からこの来た職員。まあ鉱山では偉い人「職員」といったもんだから。だから職員の子供たちが共通語使ったって怖くなかったですよ。それに対してはまず分かるようにはしゃべるんだろう。それ自分、隣のきかない子供あるとか、それなりに「んが」とか「おれ」とかって盛んだろうし。もう、両方の言葉「両刀使い」だったですよ。どっちの言葉来ても受けられたですよ。
遠藤弘: こないだ退職した阿部先生っていう方がおるねぇ。女の先生。あの先生はここの学校の言葉の担任であったですよ。それがここに来てから五年ぐらいの間は「ビシッ」と勉強したもんだよ。それから今度木口先生ってのがその前におったんだけすけど、ここの学校で育って、そして学校の先生になった。今そこにおりますけれども。その先生なんかは来たときから教えられたもんだから本当に綺麗だったですよ。それで他の学校に行くとやっぱり言葉の主任であった。で、その先生がおったもんだったために、その阿部先生ってのはここさ赴任してきたときはズーズー弁だったという、本当。言葉。自分たちが聞いても「あれー?」って、この学校さなんか合わないなというような気持ちでおったもんですよ。それが五年ぐらいの間に「ピシッ」といたら直って、そしてこの間退職するまでの間しばらくはこの学校のことばの先生やって。よく校長先生と一緒に、先生というのはその阿部先生と話したりなんかこうしたもんだけどね。
遠藤孝: やっぱり最近熊吉先生が死んでしまってから、ここの小学校の後を継いだ言葉の先生ってのは木口先生やそれからあの駒木先生。あの先生は、ここへ来たときは俺たちは青年学校とか何とかで、ある程度年取っていたから、ズーズー弁も出てきたですよ。
児玉: ほー、そうなんですか。
遠藤孝: うん。
児玉: ほー。
遠藤孝: そのあのやっぱりあの子供たちの感化で共通語大切だってことを悟って、もう一生懸命言語教育したですね。うん。だからそのそういう先生達がおったおかげで現在までこの言葉の西成瀬っていうのは続いてきてるんです。
児玉: もちろんやり方は昔とは違ったんですね。駒木先生とか……。
遠藤弘: ぜんぜん違いますよ。
児玉: いや、むしろその駒木先生たちがなさったことは結構残ってるんですよ。
遠藤孝: はぁー、そうでしょう。
児玉: だけど遠藤先生がやったことが残ってないんですよ。それが知りたいということで……会話をさせるとかその、低学年1年生だけを担任するとか、あとはその学校内をくるくる廻っちゃこう石をすっとやるとか、そういうようなことが中心だったんですかねぇ?
遠藤弘: 細かい事ながら、やはりああいうところは大事なもんだなぁと今なってから思いますよ。
遠藤孝: もう言葉言葉で一生懸命だ先生だったと思うですよ。
児玉: 他の地区ではうまくいかなかったのはどうしてなんだろう。いや、もっと言うと秋田全部に広がっても良かったですよね?遠藤先生のやり方とか考え方はね、必ずしもそうなりませんでしたねぇ。なぜでしょうねぇ。西成瀬だけが成功したのはなぜなんでしょう。いや、そこが知りたいんだけど。
遠藤孝: やっぱりあの、熊吉先生の精神でしょうね。
児玉: それが他ではうまく……。
遠藤弘: そういうことはあの、ここの場合特にその突出していったってことは、やはり細い所にそういうところ先生が、こうさっきも言ったように口に手入れてとかなんかして、「そこはそうでないよ。こうだよ」っていう風にしてここにそんな細いことまでもやってまで、この人早く言うと標準語に直してやろうというあの先生のやっぱり精神でねぇかな。そのかわり言うこと聞かないと「バチン!」とやられたよ、もう。
遠藤孝: そう。そうだねぇ3mもある竹ざお持って……。
遠藤弘: よくここのうちの後ろには竹林あるもんだから、うん、まだ小さい時からバッチリやるもんだから割れるですよ。と、また「とって来い」なんて言われるよ。
遠藤孝: 白墨をぶっつけるということはしたなぁ。
児玉: ビューって。
遠藤孝: それから、この2本指で額を。
遠藤弘: これな、「ジィ」、「ジィッ」て。
遠藤孝: 厳しかったなぁ。
児玉: 信念を持っとられたんでしょうね。絶対、変えて身に付けさせてやろうってね。
遠藤弘: ああいう風に見えて随分短気だったよ。
遠藤孝: だから、私はやっぱり昭和4年の1年生ですけども、その1つ2つ3つぐらいの上級生は遠藤先生から習っていないですよ。ちょうど、東成瀬の校長やっとったので。その前の人方はまた習ってるですよ。だから、俺たちの親たちも遠藤熊吉先生の教えを受けてる。そこにあるですよ。だから、俺たちよりも3級ぐらい上の人方までその人方は熊吉先生から習わなかったけれども、校風がそうなってるもんだから、他の先生方はやっぱりその言語教育を守っていたんですね。
児玉: その守ってって言う中身なんですよ。その何を守ったの?どう、別に石を出したり口を、そういうようなもんじゃない?
遠藤孝: 本読む、本読む、読書会話でしょうね。会話がやらせられた。
遠藤弘: 読書、会話だな。読書会話。
児玉: 国語の授業の時なんかは、もう音の指導、音声の指導は結構こまめにやったということなんでしょうねかねぇ。
遠藤孝: だから、ここへ来た先生方、さっきもこっちの方が話したとおり、先生自体がここに来るっていうときはかなりの決意を持って来たもんだから、理解した先生方が来てくれたですね。
児玉: 能力の高い人、関心のある先生が来てくださったんですよね。ますますうまくいきますわねぇ、そうなれば。
遠藤孝: だから、あの遠藤熊吉先生がおらなくとも、あのーもちろん講座もあったでしょうし。うん、共通語教育って言うものが種が切れないで続いだっていう。
今村: じゃ、遠藤先生に習わなかった、あのー遠藤さんよりも2つとか3つとか上の人たちも同じように、じゃやっぱりあの標準語を話せたんですか?
遠藤弘: 話せた。
遠藤孝: かえって俺たちよりも上手に。
遠藤弘: 年上であってもほんと。
今村: じゃ、やっぱりあれですか、その遠藤先生がいなくても、そういうことが無くても他の先生が、じゃ指導してたんでしょうかねぇ?
遠藤孝: そうですよ。
遠藤弘: それまでは分かんねぇ。私、感じるのは今自分たちが役場とかあるいは会議とかなんか行った場合には標準語で話するねぇ。それがさっき言った3代も4代も上の人が話をするにしても綺麗なもんですよ。よくこの人はこれだけの年がいってるにもかかわらず、綺麗な言葉を使うと。うん。発音がいいというようなことはつくづく私たち感じたもんですよ。それで、その中間が、ちょっとというのがあった訳ですよ。その中間の人たちが、遠藤先生の教育も何も無かったわけです。
遠藤孝: やっぱり、今6年生で後中学校でしょうけれども、俺たちの時は高等科っていうのがあって8年入ったですね。そうすると、幅広いですよ。先生が担任変わっても、子供変わらないもんだから、基本出来てる子供は学校で使ってるんですよ。だからそんなに生徒間に上下が無かったし。私より1級上で「自慢でないけども私は熊吉先生から一切習っておりませんよ」なんて挨拶する時。それより逆に威張ってるんですよ。俺たちより言葉綺麗なんですよ。
遠藤弘: こりゃもう綺麗だな。だけど、このー綺麗だよ。先生から習っておらなくても。それはやはり鉱山の周囲の人が綺麗だから。
遠藤孝: やはり先生方にはもうここへ来ると共通語使うもんだと。言葉の学校だというんで。うん。遠藤先生が言うように、悪がってやらなかったら子供たちに逆に突っ込まれるんだもの。
児玉: まあ、まあ、もうちょっとね時代が……。
遠藤弘: 歴史的にやっぱそんなの書いたもの無かったんだよねぇ。
児玉: 何も残ってないですよ本当に。その辺がこう、まあこれ昭和の30年代ぐらいにも調査があったそうですけども、今となっては直接習った方々にま、本当に話し聞くしかなくて。
遠藤弘: 本当になぁ、担任で習ったってのはいくらもいないよ、今。本当。今ここら辺では私と2人ぐらい。
遠藤孝: いないよ。俺んど始まりだもの。昭和4年がらあとそれ以上ってのはいるけれども、もう90になってるから。利一さん、んだ、俺たちより6つ上なのも、熊吉先生から習ったのも。
遠藤弘: われわれはもう直接的な担任だったから。そういうほうが少なくなってしまったね。80過ぎてるから亡くなるのは無理ないよ。
児玉: まあ、うんあれですけども、そうですか。
遠藤孝: 今生きてたら120ぐらいになったかな。
児玉: そうでしょうね。
遠藤弘: お宅さんだち、こう聞きたいって言って来ても、それに答えられるようなことがなんだか話できないもんだから。
今村: いえいえ、本当にありがとうございます。
児玉: いやいや、大体分かりました。あの本で読ませて、事前に勉強して読ませていただいたことと、直接お話ししていただいたことがちゃんと合ってますし、プラスアルファその他の地域とのね、ことでどういう風な気持ちで思っておられたのかもよく分かりましたんで、大体もう満足です、大満足ではい。あと、じゃここのこと少しこのなんか……。
今村: はい、あの前にも一度お伺いしたかもしれないのですけれども、遠藤さんのお二方にとって、共通語を話すお手本っていうのは何だったかな、ということについてはどう思いますか? 例えば、その遠藤先生だったとかですね、あるいは遠藤先生とその周りのお友達だったとかいろいろ思っておられるところがあると思うんですが、その共通語の自分の話している共通語の、自分の話している共通語の1番のお手本は……。
児玉: 真似するお手本ですね。
今村: は、なんだったと思いますか?
遠藤弘: さて……。
遠藤孝: やっぱり、国語の本でしょうねぇ。あれは皆、共通語で書いてるから、方言は一切入っていないから。うん。
児玉: では、話し言葉のお手本は何だったですかね? 話す……。
遠藤孝: だから本通りにしゃべればいいっていうのが……。
児玉: 遠藤先生自体のお話しぶりはどうだったですか?
遠藤弘: 普通だったよ。
児玉: 要するにこれはお手本になるな、真似したいなぁと思うような話しぶりだったですか?
遠藤弘: そういうこと感じたことないよ。
児玉: 他の先生とは違いましたか?
遠藤弘: ただ、自分が青年になって社会人になって、そして私の場ですよ。これは、私の場合はあくまでも世間の出稼ぎに行って、そしてその人たちの言葉っていうものを自分が勉強した。
児玉: そこで始めて気が付くんですよね。
遠藤弘: そのとき始めて。
児玉: 気が付くんですよ。こっちにいるときはそんなに、うん、当たり前のことだから……。
遠藤弘: 普通ここでいうようなことが出来ないから、やはりその人たちのその言葉に合わせていかなきゃいけないから、やはりそういう風にして私は出稼ぎで本当に勉強しました。
児玉: なるほど。
遠藤孝: 汽車に乗ったときとか、今電車って言うんですか。俺達は汽車であったから、十文字の停車場から汽車に乗ったと。そういう時はやっぱり共通語の。うん。
遠藤弘: あのう、余分な話かもしれませんけれども、北海道ってところは全国から集まって……。
児玉: そうそう、私北海道です。
遠藤弘: 1番言葉の綺麗なとこなんですよ、本当。どの人と話してても言葉が通じる共通語になっている。そうですね。
児玉: そうですね、はいそうです。
遠藤弘: 私ほとんど北海道で、兵隊行く前は北海道に出稼ぎして、して炭鉱でそういう言葉を取ったっていう……。
児玉: 夕張とか、あのそのあたりですか?
遠藤弘: そのあたり……。
児玉: 僕は旭川です。
遠藤弘: 「しながわ」とか「しながわ」とかってねぇ。ねぇ。そういうところであの向こうの人たちと交流している、そん時に言葉ってのは覚えたから、誰が自然的にうちの方にいてしゃべるときと、向こうにいると向こうは向こうの言葉にいつもそういうような言葉になってしまっているからなんとも思わなかったです。で、それが他にいって見ると初めて「あれっ」て自分を感じるときある。でしょ? そちらにはほら言葉で話ししているから、下手にすると、あのーあれだ、こちらの方なんかでは生意気だって言われたかも知れないね。
遠藤孝: だからそれが怖いから「両刀使い」で、うん、だから相手次第なんですよ。標準語出す時と、それから本当に友達同士としゃべる時でまるっきり。うん、手のひら表裏。
児玉: 「両刀使い」ってのはうまい言い方ですねぇ。
遠藤孝: 「こんにちは」ってお客さん来たら「こんにちは」って言う。「きゃ、なんだやー」なんて来たら「あ、んだなやー」なんて、どっちの言葉でも使えとるんだから。
児玉: そういう意味ではあれですよね。そのズーズー弁は良くないとかって言うんじゃなくて、やっぱりそういうのも含めて秋田弁ていうのはこれからも残しておきたい言葉ですよね?
遠藤弘: そうですねぇ。私もそう思います。
遠藤孝: そうですねぇ。そりゃもちろん。でも今は言葉綺麗ですよ。うん。俺たちは家では「ママけ」なんて言うてる。「ご飯でしょ?」やられてしまうですよ。学校に来なくてもこういう時からもう標準語使ってる。そういえば俺たちも標準語使えるもんだから「そうです、ご飯ですよ」なんて。
遠藤弘: 標準語でなく、今現在のここの標準語でなく、地元の言葉。地元の言葉っていうのは、古今集みてぇにして本にしてとって置くん人あるど。
遠藤孝: 本文でやってるな、それなぁ。
遠藤弘: 誰でも忘れはしますよ。自分達も忘れてしまう。で、いったんやれば「あれ、これなんだっけや」と言うでしょう?
遠藤孝: 方言も大切だからなぁ。
遠藤弘: 「けれ」って言ったって、ただ「けれ」って言っただって、私たちだったら「下さい」って言えば皆の話だけど、「けれ」って言ったったってそれがここさ残っておらなければ、言葉にならないもんね。なんだろ、これはこの言葉はって言いたくなる。本当に残しておくべきだなぁと思う。
児玉: 今の人はそういう意味じゃこの共通語と秋田弁はうまく使い分けして無い風に見えますか?
遠藤弘: あまりもう標準語の方が上になってしまって、方言が隠れてしまったのよ。
遠藤孝: 今やっぱり、方言、方言は使わなくなったですよ。
児玉: むしろ、皆さんたちの世代の方が、使い分けをうまくやってたんですかねぇ。
遠藤孝: それで結構大いにいいことだろうけども相手に話ねえ、伝えることと自分聞くこと知っとったら。うん。方言って言うのは一つのこの、使ってみてこの親しみですか。それが大切なのであって。こりゃ自然と消えていくのは道理だと思うですね。
児玉: 分かりました。
今村: 本当に勉強になりました。
遠藤孝: いやいやいや、なんも。
遠藤弘: 私の場合は本当、かなり複雑な頭が。というのはほら満語からロシア語から朝鮮語から皆こう混ざってこう頭の中で。だから「ぽっ」とこう出たりする。
児玉: 今でも出ますか?
遠藤弘: 忘れたな。……ロシア語の場合はな。ロシア語たってそうだ。今言うようにやはりここの言葉「タチック」、「カザック」あるいは「モスクワ」まで行ったんですけど、あとシベリアと。全然こう違うの、皆。
児玉: 方言みたいなもんですね。
遠藤孝: どこでも同じだよ。
遠藤弘: 樺太さ行くと、家から樺太まで北海道と同じようなもんであっても違うし。それに、いろんな国の人たちと一緒に暮らしてきたもんだから、うん。ドイツの捕虜とかイタリアの捕虜とかね。そしてやってきたから。
遠藤孝: ここ自体だってあれでしょ。あのー部落自体でなくしてちょっと離れた所、まあ東成瀬とか稲川町とか、そこの言葉違うですよ。
遠藤弘: 今でも行って、向こうの方に行ってそして、父兄さんたちから聞いたりなんかしたら、先生方にも分かると思います。
児玉: ああ、そうですか。
遠藤弘: ここに聞いてしてまた向こうにいって聞いたりで、両方こう対照してみれば「あれっ」と思うことがいくらでもあると思うよ。
児玉: 地元の人たちは皆そう感じてるんですね。もう、西成瀬だけは違うんだと。他はやっぱり昔ながらのズーズー弁は残っていう風に感じてるんですね。
遠藤孝: そうそう。
遠藤弘: しゃべっちゃったね。
今村: いや、本当、長い時間ありがとうございました。
【文字化:今村かほる】
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