ことば調査報告
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
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西成瀬小学校卒業生へのインタビュー(3)
語り手: 佐々木弘氏 (以下、佐々木) S.17卒業
  見田順一氏 (以下、見田) S.18卒業
  佐藤 寛氏 (以下、佐藤) S.18卒業
聞き手: 児玉 忠 (以下、児玉)
  今村かほる(以下、今村)
調査風景

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今村: 西成瀬の小学校でですね、学校で秋田弁を使って直されたりとか、あるいは、こういう言葉を使わないようにって叱られたってことは学校ではありましたか。
佐藤: ありませんけども、さっきどなたか言ってましたが、遠藤先生と会ったときに注意を受けたことは何回もある。
児玉: 西成瀬の言葉は違ったって今おっしゃっていただけたんですけど、皆さん自身がですね、共通語を身につけるときに、何がお手本だったと思っておられるかを、ちょっとお聞きしたいんですけども。何がお手本だったんでしょうか。
佐々木: やっぱりね、遠藤先生のあれですな。授業のときの教えた言葉が、アクセントと言うんですか、発音、それがやっぱりお手本でした。
見田: 遠藤先生と、その遠藤先生から習った先生がまた手本。女先生だな。影響あるのは。
佐々木: ラジオもテレビも無かったもんだから、先生がほとんどやっぱりすべてが、先生手本だったから。
見田: 結局小学校に入って標準語を覚えた。家庭は全く方言だから。
佐藤: 同じです。遠藤先生という人は特別年配の先生でしたし、受け持ちがあるとかいう先生ではなかったような気がします。たまにお見えになって言葉の話をするという程度でしたし、あまりにも有名だったそうで、後で転任になってくる先生がだいぶ気を使ってくるんじゃないんだろうかと思われたし、そういう言葉に心がけている先生が来たんじゃないだろうかというふうに思ったこともあります。やはり今振り返ってみても、あの先生なぁ、言葉いい先生で、遠藤先生のおかげだべなと思って、そういう意見はあると思いますよ。
今村: 方言と共通語とか標準語ですね、2つの言葉を使い分けるということですね。そのことについてはどのように思っておられるか聞きたいんですけども、けじめがあっていいとかですね、そりゃあもう2つ使い分けるのは当然だ、まあ2つ使い分けるのは仕方がない、2つ使い分けるのは不自然だ、それは屈辱的だ、煩わしいとか、そんな別になんとも思わない、もともと使い分ける必要はない。どんなふうに思っておられるか。
佐々木: やっぱり時と場合で使い分けなくては、使い分けるのが当たり前だと、使い分けるのは当然だと思います。
見田: 私も同じ。当然。苦痛でもない。
佐藤: 同じです。先生がきれいな言葉使って今お話していますので、なんとなく使わなければならないんだろうとなっちゃいました。
児玉: 私が知りたいのは、遠藤熊吉先生当時のですね、先生と生徒さん達のことについてなんですよ。で、あの、昭和30年代から昭和50代より後のことはですね、結構、書き物として残っているんですよ。残っているんです。ところが遠藤先生がおられた当時のことはほとんど書き物に残ってないんですね。ですから、すべては皆さんの記憶の中に残っているだけなので、そのために、今回出来るだけたくさんの方にご協力をいただいて、当時の先生の指導の仕方の様子をですね、お話いただけたらと思っている次第なんです。それで今、分かっているところまでをちょっと私の方でおさらいしておきますと、遠藤先生は、あの、皆さんが小学校に入られたときは代用教員として、1回定年した後に、来られて、で、代用教員としてっていう形よりも、むしろこう、なんか自由に色んな教室に行く先生としてやっておられた。
佐々木: 来たり来なかったり。
見田: 来ないとき、よその学校に行ってるって……。
児玉: よその学校にも行っておられましたか。それとかですね。まあ、あの、教えるにしても1年生中心で、入学したての子供達中心で教えておられたっていうようなところまでは分かってるんですが。あと、時々こう指を口の中に入れられるとかですね。そんな話もこう、少し聞こえて来るんですが、ま、その程度でですね、実際のところはもうひとつ、ちょっとよく分からないので、例えば、1番、こう、遠藤先生に言われたこととか、してもらったことで、印象に残っておられるようなことをありましたらお教えいただきたいんですが。先ほど、少しあれしましてですね、時々やって来る先生であった。時々やって来て、どんなことを、さっき言葉のお話をしてくれたということだったですが、お話しをしてくれたことが多かったんですか。
見田: やっぱり発音のことですよ。4年生か5年生くらいのときです。あの当時は55歳が定年でしょ、先生は60いくつのときに自転車でりっぱに、姿勢はすげえいいんだ……。
佐藤: 私たちの記憶では、何年生を受け持つとか、あるいは、何々を教えるとかそういうもんじゃなく、例えば端的にですが、「し」とか「す」とか、あるいは「に」とかそういうひとつひとつの発音を言わせて直させる、そういうことだったように記憶しています。
佐々木: 喉で「く」はあれはやられたやあ。あれは忘れない。喉の奥から「く」でやれって。喉の奥で「く」って。それだけはまだ。それはよくやられた。「いす」「机」とかって、そうゆうのは一生懸命。
佐藤: したがいまして、他の授業の際も他の先生が、遠藤先生がこう教えていたんだから、それを守りなさいと。例えば国語の朗読であれば、ひとつひとつ他の先生でも直すというような方法でしたよ。
児玉: それはでも、授業中はそういう感じで、休み時間とかも結構色んなこと言われたりしましたか。
佐藤: しました。休み時間も、それから登校途中、下校途中なんかも。
児玉: 下校途中も? どこかに立っておられるんですか?
佐藤: いやいや、会ったりしたとき。あの姿勢で自転車に乗って。しょっちゅうやられました。
児玉: スッとなんかこう言ってみろとかやってみろとか。
佐藤: そうそう。
見田: 私の家は田舎の小さい店で、先生が奥さんから買物を頼まれるんだな。豆腐買って来いとか。そうするとうちのばあちゃんが、店先で発音直されてた。「まんど」なんていうと「まど」なんて。アクセントまで直して。だから、「とても先生、この年になってから、直らない」と言っても。それほど真剣ていうか一生懸命指導する。
児玉: 24時間ずっと。
見田: 気になってしょうがないんだな。「まんど」なんて言うと「まど」なんて。直さなきゃいけないという、先生にすると当然のことをやっているという感じ。
児玉: 遠藤先生はやっぱり発音良かったですか?
見田: もちろん。
児玉: 真似したくなるというか、お手本としてはやっぱり優れたいいものだったんですね。
佐々木: よく、だから、お話会だなんて、朝礼によって、壇さ上がってやらされたもんな。
見田: そうそう。
佐々木: あれは遠藤先生のあれではねぇもんな。応用だったもんな、他の先生達のな。
児玉: なんか、お聞きすると、生徒達がですね、全校朝礼のとき、2人選ばれてお話すると。それも最後、先生が今の発音はこうだったよ、ああだったよというようなことを。まあ、指導がある。
佐々木: それは十分やらされました。
児玉: 特になにか教科書使ったとか、なんかプリントを使ったとかってことはあんまりない。
佐藤: ありませんでした。
見田: あんまりない。遠藤先生はな。
佐々木: 普通の教科書ぐらい。
児玉: だから何にも残ってないんですね。どんな授業だったかがほとんど、その、紙では残ってないんですよ。じゃあ、その授業ってだいたい45分とか50分ぐらいですよね。1つの教室に入って来て遠藤先生がこの時間は僕がやろうって言ったら、そういうこう、子供達に話しをさせたり、発音をやってみろやってみろって、こう、指導したりってのは、そういう授業だったんですね。なにも使わない?黒板は?
佐々木: 使いません。五十音ぐらいだな。
見田: だから子供相手に面白くやろうなんて頭に無い人。ただ、その発音をはっきり言えということで。子供相手のね、桃太郎のお話でもして喜ばせるなんていうことはおそらく頭にない。
児玉: 午前中お聞きした方もね、怖かったって、チョークがよく飛んできたっておっしゃってたんですけど。
見田: 現役だったらそうかもしれない。我々の時代はすでにもう55歳、60代だからな。
児玉: じゃあ、当時の物もなんにも残ってないんだなぁ。あの、教科書をですね、読んだりとか声に出して読んだりとかはよくなさいましたか?
佐藤: はい。
佐々木: 教科書内ではなあ。
佐藤: ただ、遠藤先生が、あの、読みなさいと言うんじゃなく、遠藤先生の影響だろうと思うんですが、他の先生がやるんですけれども。遠藤先生を意識してやるんだろうなと思ってました。
児玉: じゃあ、遠藤先生は、その、教科書を読みなさいというようなことはなさらなくて、1つずつの発音とか書いてあるものを読むんじゃないんですか。
佐藤: はい。
見田: だから、先生は講堂に全校生徒を集めて指導するのではなく、1クラスか2クラスを教室で、1人1人の発音が先生の耳に入る、それを直すという指導だと思う。
佐藤: やっぱりあの、これはなんですかってこう聞いて、例えば、何々です。何々って言うんでしょ。あの、私達も。「し」だか「す」だかわからねぇような言葉を使っているときだから、やっぱり遠藤先生にすれば、大変耳障りと言いますか、残念だったんだろうと思いますが、それを直させるというのは、1人1人を直すと、こういう方法でした。全体を直すんではなくて、1人1人を直す。
児玉: そこで、当時の子供たちのことで次にお聞きしたいんですけども、我々の知りたいことは、遠藤熊吉先生は確かに優れていた、優れた先生だと思うんですが、なぜ、西成瀬小だけこんな風にうまくいったんだろうかと。ていうのは、やっぱり秋田全県あるのにね。これ1つの謎なんです。
佐藤: 私達も思ってます。
見田: それは、吉乃鉱山があって、課長、現場以外の課長というのはだいたい東京の住友本社からやって来るわけ。皆標準語しか話せない人たちです。
佐々木: その影響もあるもんな。
見田: その影響。だから割合に標準語が普及し易かったと思いますよ、やっぱり。
児玉: 僕もちょっと今、そこの資料室で確認しましたら、やっぱ、昭和18年が吉乃鉱山の従業員が最も多いんですよ。759名。このときがようするに、吉乃鉱山の最絶頂期って言いましょうか、一番たくさん。だから家族も来たし、子供もいたし、それに絡むように、昭和18年あたりは、やっぱり、西成瀬小もピークなんですね。子供の数がピークなんです。ですから、そこでおたずねしてみたいのは、クラスにですね、1クラス何人くらいですか。当時は。
佐藤: 50人くらい。
児玉: それで、地元の子とそれから吉乃鉱山関係の子というのがたぶんあったと思うんですけども、比率で言うと、地元対吉乃鉱山は?
佐藤: 半分ぐらいです。
児玉: 半分くらいが吉乃鉱山関係の子供?
佐藤: しかもその半分の吉乃鉱山のかたの[長屋住まいの]子供さんの大多数は言葉も悪いし、それから行いも悪い。喧嘩するし。役宅にいる、あの役宅と言いましたが、職員さんでしょ、あれきっと。その方々は少なかったんですよ。あと、私達のように、この辺の地元の子が半分くらいでした。[註:役宅とは主に住友東京本社から課長級の約30家族が住む社宅で一戸建ての家。役宅に対して長屋とは肉体労働者が住む5戸くらい連なった粗末な社宅で約300戸。両方とも平屋建。(見田記)]
児玉: そこでいろんな子供達がやってきますけど、必ずしも秋田の子ばっかりじゃないですから、ひょっとしたら、北海道の子もいたかもしれない、関東の子もいたかもしれない。そういう結構、その、方言とか言葉は混ざってたんじゃないですか。もうすでに。
佐藤: 混ざっていました。
児玉: やっぱりそういう感じはありましたか。
佐藤: 先生さっきちらっと言いましたけども、なぜ、西成瀬小学校だけがというのは、私、今だに疑問なんです。やっぱり。と言うのは、先生がすぐそこの安養寺のご出身で住んでおられるからなのか、今、見田さんが言ったように吉乃鉱山の従業員さんの関係なのか、私達が言葉がよく生まれたのか、そのへん、ちょっとまだ今だに分からないんです。
児玉: いや、僕はたぶんそのへんの関係がうまく、うまくこう、お互いに好循環が起こったって言うのかな。ところはあったんじゃないのかと思うんですが。やっぱり、じゃあ、なんと言いましょうか、まあ、ベースは、その、こっちの秋田の言葉ですけども、違う言葉をしゃべるお友達とかもいたんですか?
佐藤: はい。
佐々木: たくさんいました。
児玉: そういう子の発音にもやっぱり遠藤先生は1人1人、こう、指導していく?
佐藤: ええ、そうです。やっぱりあれでねえんすか、あの、他の、亀田小学校、増田小学校、田舎の方の学校よりも、ここの西成瀬小学校に数多く来て教えたんじゃないんでしょうか?
佐々木: そして、今ちょっと考えたんだけど、やっぱり、遠藤先生が地元だから、我々、協力したって言えば変だどもよ、[地元の人にとっては]関心が強かったんでねえのがと……。
見田: だから、まあ、名前、木口わか子という先生、女先生、まあ、一所懸命やった。そういう先生が、まあ、感化、遠藤先生のよ、まあ、感化された、あるいは義務感というかな、やらなきゃいけないというね。
佐々木: よそから来た先生方も大変だったろうと思う。だいぶ気を使ったろう。
佐藤: 自ら注意したんでしょうし、私達にもそういう教育したんでしょう、先生……。
児玉: お父さん、お母さん達はそうでしたか。やっぱり、遠藤先生の言うことを聞いて、ちゃんと言葉の勉強をがんばりなさいという、家でも学校で言葉の勉強がんばれ、がんばれっていう風な、そういう。あんまりそうでもなかった?
佐々木: それはなかったなあ。
見田: 家庭ではあんまりねぇ。標準語は教室内だけです。
児玉: といいますのはね、もう1回、その、定年後に呼ばれる、代用教員として呼ばれるなんて言うようなことはやっぱり地元も遠藤先生が、こう、来て欲しいというのがあったのかなと思ったんですよ。そういう、こう、保護者達っていうか、父兄達もね、応援して。
佐藤: それはねがったんでねが。
見田: 特別ない。村人には先生は別格の人と思われていた。「代用教員」なんて恐れ多くて思ってもいなかった。
児玉: そういうのはあんまりなかった?
佐藤: 遠藤先生自ら押しかけたのがあるんでねが。
佐々木: おそらくんだ。
見田: 今日はどこも遠くの方ないから西小に行ってみようかなんて。
佐藤: 歴代の校長さん達後輩なんでしょ。だから、今日も来ましたよって来たんじゃないか。
見田: 初代の校長だろ、おそらく。奥羽線なんて汽車無いときに、仙台まで歩いて行って、国士舘か、国学院、どっちかの大学に入っているんだな。歩いて行って、仙台まで。
児玉: さっきの、その、いろんな鉱山関係の子供達もたくさん来てるっていうことは、先ほどちょっと教えてもらったんですけど、亀田とか近隣の小学校にはそんなにたくさんの鉱山関係者の子供は通わなかったわけですか?
佐藤: 誰もおりません。
見田: 誰もいかねえやなあ。そして高等科は西小しかなかったからね。
佐々木: 全部ここ。
児玉: ここだけですか。鉱山関係者の子は全部ここに集まっちゃったわけですね。
見田: だから考えられない、あの、普通の町だって出来ないことを吉乃鉱山がやれるなんて。鉱山戦士って言うんだな。一種の戦争の言葉だけども。
児玉: 本当にこの辺はそういう意味でこう、栄えた。鉱山のおかげで栄えて、最新の物もどんどん入ってくる。
見田: 文化の泉だな。
佐々木: 他には無い文化だな。
児玉: それはやっぱり西成瀬の人達にとっては誇りですよね。こんなものもあるぞとか。
見田: 週1回くらい親交館で映画の上映もあった。しかも無料でね。有名人も来た。[註:戦時中に、お蝶夫人の三浦環、学習院院長・海軍大将の山梨勝之進など、その他有名人沢山。(見田記)]
佐々木: 公害もあったけども、まず、それよりもやはり文化というものが影響あったしな。
児玉: 見田さんのこのご名刺をいただきましたけども裏を見たらね、学歴のところに小学校書いてあるんですよ。普通なかなか書かない。高校から書く人はいますけど。
見田: 誇りだから。
児玉: 小学校、学歴からお書きになる方、僕初めてだった。やっぱり西成瀬小っていうのは……。
見田: 誇りに思っています。
児玉: 当時から西成瀬はちょっと違うっていうような意識をお持ちだったようですけども、卒業なさってですね、例えば、佐々木さんでしたら、14、15歳で東京に行かれましたよね。見田さんの場合は、えーと、大学で……。
見田: まあ18歳から。
児玉: 行かれましたよね。佐藤さんの場合は、基本的にはずっと、西成瀬に来る前に横須賀におられたんですね。
佐藤: はい。
見田: お父さんは軍人?
佐藤: うん。
見田: 職業軍人業なんかとやや近い。
佐藤: 海軍の兵隊さんだったんだけど。
今村: お二人にお聞きしたいんですけど、ここから出て、秋田出身者として、あの、方言と共通語がうまく使い分けが出来たっていうんで、困らなかったっていうような話はよく聞くんですけど、実際のところはやっぱりそういう感じはありました?
佐々木: そうですよ。ほとんどそのへんは。
見田: やっぱりね、先輩が兵隊に行ったら、「本当にお前秋田か」って言われたって。秋田なんてズーズー弁しか言えないと、他県の人は思っていたらしい。遠藤孝太郎さんとか、ああいう年配の人がね、「そういう言葉、標準語を使えるのはどうして」ってびっくりされた。こっちの人は、当時、標準語習っているから、標準語で言わなきゃいけないと思っているわけ。それが当たり前。
佐藤: 私の場合は、定年なってから東京に仕事したもんで、やっぱりズーズー弁に立ち会いましてね、大変難儀しました。4年間東京に。それでも東京の言葉っては、案外汚いんですね。あの、共通語じゃなくて、なんとなく東京弁。べらんめぇだし。その点、助かりました、割合に。でもやっぱり難儀しました。言葉に。55歳過ぎてからですから。難儀しました。
児玉: そっからもう1回というのはなかなか……。分かりました。
今村: ちょっとお聞きしたいのはですね、方言を使ったときのことです。「まんど」じゃなくて「まど」でしょうというふうに、こちらが、これがいい発音だっていうふうに[遠藤先生が]発音して見せてくれるっていうのをさっきお聞きしたんですけども、方言の発音の仕方を止めなさいとかですね、そういう言い方はよくない、とかっていう風に言われた覚えはおありですか?
見田: ないです。方言には先生は全く触れないです。
佐々木: ほとんどありません。
佐藤: ねえなあ。
見田: 方言否定はしなかったです。それは、先生の偉いところの1つ。方言は方言で大事に、その代わり標準語もがんばれと。
今村: じゃあ、今仰った、方言は方言で大事だっていうふうに仰ったこととか、そういうふうに教えられたこととかはおありですか。
見田: いや、それは僕らには直接触れない。これ、僕らより今日先に[インタビューを]やった人がたは直接聞いていると思う。80近い人がたは。例えば現役で先生が、まだ、退職していない、現役だったら、そういうことも言ったかもしれない。僕らのときは、ほれ、3、4年生であったから、そんなこと言ったって分かんない。まあ子供だからな。方言は馬鹿にしない、否定しない、先生は。
今村: じゃあ、あくまでも、標準語はこういう発音ですっていうのを勉強することはあっても、方言は駄目だっていうふうに言われたことはないんですか?
見田: まず、そういうことです。家庭内での方言は仕方ないと先生は認めていたと思います。
児玉: そうですか。
見田: いやぁ、それを否定したら先生ここにいられないよ。
佐藤: でも、歴代の先生方は、私達に標準語を使わせるような、それから言葉を綺麗に話すような、そういう勉強をさせてくださって。それを感謝しています。
見田: ほんと。だから、伝統というものだなあ、そうなれば。まあ、西小に行くの嫌だなあと思った先生いると思うよ。
佐々木: 緊張したでしょう。新しく来た先生は。
見田: おそらく。
児玉: 勉強しなくちゃいけないし、自分もやってみせなくちゃいけませんしね。
今村: じゃあ、遠藤先生以外の先生が、勉強の時とか、言葉のことについてとか、本を読むときとかもあったんですけど、方言の言い方とか、こういう言い方は止めなさいってことじゃなくて、あくまでもこれが共通語とか標準語の形ですよっていうふうに教えてもらったんですか?
佐藤: そう。
佐々木: うん。
見田: そう。
児玉: そうですか。
佐藤: 知らず知らず、私達そういう使い方をするようになっておりましたから、先生達偉いなあと。まず、そう感じたのは、住んでいるところに行って、同年輩の野郎どもと、付き合うようになって初めて分かったんですよ。笑われたんです。俺達が。それをなぜ笑われたと思ったのか、大変残念ですが、こうやって威張っていればいいものをなんかよそ者みたいになっちゃって、小さくなって、皆さんの言葉と一緒にならねば、できねんだろうな[=だめなんだろうな]というような変なことを考えた時代もあって、さっきもちょっと言いましたけど、大変恥ずかしかったんです。それと、あの、今思うんですけども、言葉の使い方ですけども、遠藤先生、ここの学校に足しげく通って教えてくれたんでしょうし、他の先生方もそういうふうな教育してくれたんでしょうけども、隣の学校なんとか、全然そういうのがなかったらしくて、それこそ、ズーズー弁に点が3つ位ついたような、そういうんで……。結婚してお嫁さん来るんでしょう。それから行くんでしょう。いろいろ交流はあるんでしょう。そういうところでやっぱり混じってしまうんですね。だから周り・ 烽サういう同じ教育してもらえれば、もっともっと、地域がよくなってあったと思うんですよ。いらないことまで言っちゃいました。
児玉: もう1つの謎はなぜこれが広がらなかったかなんですよ。なぜ出来たのかっていうのは今なんとなく、少し分かったんですけど、なぜこれが、この地区全体に、そして、県、秋田県全体にね……。
見田: 一番は遠藤先生の超人的な信念と努力が西小で実ったということだと思う。もちろん遠藤先生の感化で他の先生方が努力したことも大きいです。録音テープもコピー機もない、ガリ版刷しかない時代ではやはり広がらない。「標準語で良い米が作れるか」という頭が農民にはありますし。
佐藤: だから、さっき見田さんが言ったように、西成瀬に転勤になれば、さあ、大変だと思い、他校に転勤して行くときは、ああ、ゆっくりしたということでしょう。きっと。
児玉: ああ、よかった、やれやれと……。
佐藤: な。そう思うよ。だから、その、周りが、周りが依然とした、そのままで。という、その、差が出たと思うんです。
見田: だから、私、旧制中学に入ったら、授業終わってから、ある先生が、「見田ちょっと」って廊下に呼ばれて、「お前どこの小学校だ」って、「西成瀬小学校です」、「やっぱりな」って、そう言われましたよ。
児玉: あの、文献なんかで今のような話と似たようなお話は少しお聞きしてたんですけど、実際こうやって直接お聞きしますと、感動しますね、やっぱり。ほんとにあるんだと思って。
見田: やっぱり、僕らも、まあ、全体の卒業生、当然、言葉の学校だと、やるもんだというような意識もあったと思います。
児玉: もう学校がね。もうすでに無かったから。
見田: そういう雰囲気。だからよそには伝わらない。
児玉: なんか難しいんでしょうね。
佐藤: ほんと、よそにも広がって隣の学校も同じ教育受けていれば、もっともっと秋田県も、しいては東北もよくなったんだろうと思います。
今村: さっき、あの、どういう方とか、どういうものが、その、共通語の見本でしたかってお話を聞いたら、遠藤先生もだったけれども、遠藤先生以外の先生ですよね、そういう先生も自分たちの共通語の見本だったっていうふうに仰ったんですけど、あの……。
佐藤: んでない先生もおりましたけども。
今村: あっ、そうでない先生もやっぱりいらした。
見田: みんなみんな先生方、例えば、15人が全部言葉がよく……、そういうことはない。ただその中で、何人かが一生懸命。
佐藤: 努力してくださる先生もおりました。
見田: 伝統を守ろうというね。それにはやっぱり女先生なんかね。男があんまり標準語……、当時の雰囲気としては。まだ戦時中だしね。
児玉: やっぱり女性の方がそういうのには関心があったということでしょうか。
見田: 今だったら男でも一生懸命ね、標準語教育もするでしょうけれども。当時は戦争なんかでね[男性は標準語などに関心がなかった]。
児玉: あの、じゃあ、さっき吉乃鉱山の役宅とかの子供はすごく少なかったって言ったんですけど、そこの子供は、やっぱり標準語とか共通語だったのですか。
佐藤: きれいな言葉でしたよ。
佐々木: それはやっぱりな。
見田: だって東京本社から来た課長級の子供だもの。
佐々木: 東京の方から来た。
見田: 転勤してくる。
佐藤: あんまり……何人いる……1クラス1人か2人くらいだったよな。
見田: そうだな。
今村: その子供さんの言葉っていうのは、まあ、同じ子供ですけど、そういう人は、別に見本だとかいうふうに思わなくて、あの、こういうふうになりたいなっとかっていうふうには思ったりとかなかったですか?
見田: 特別、まあ、ないね。
佐藤: 思わねぇなぁ。特には。
佐々木: 思わねぇ。
今村: やっぱり、先生っていうのがいい見本っていう。
佐々木: 先生絶対だったからな。
見田: だから、その、標準語でしゃべる東京の同級生も当たり前。それが秋田弁しゃべったらおかしくて。
佐藤: 彼らが言うのは標準語じゃないんでしょう、あれ。東京で育ったら、東京弁でしょう。
見田: 東京弁な。標準語ってのはないな。
佐藤: 遠藤先生が言うような標準語じゃないと思いますよ。ただ、我々よりは言葉もきれいですけど。流暢だしな。
【文字化:今村かほる】
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