ことば調査報告
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
西成瀬の話しことば教育 ことば調査報告
トップページ
資料 リンク サイト案内
西成瀬小学校卒業生へのインタビュー(5)
語り手: 高橋健一氏 (以下、高橋) S.21卒業
  松井剛一氏 (以下、松井) S.24卒業
聞き手: 佐藤和之 (以下、佐藤)
  日高水穂 (以下、日高)
調査風景

音声(抜粋)再生 文字化部分へ
佐藤: 遠藤熊吉は西成瀬の教育にとってどういう役割を果たした人ですか。
高橋: 詳しくわからね。あの、秋田弁でいいですか。(佐藤:はい、どうぞ。)あの、我々が接触したのは遠藤先生が退職した後だったんですね。我々が在学中は、先生が退職した後に学校に来て、言葉の教育を受けたし、それから、我々が登校する時に向こうから自転車でくるんですね。すると、途中で降りて、道端にある石ころを拾って、「これなんだ?」と我々に言わせる。我々は「エシ」、「エシ」って言うわけですが、「「エシ」じゃない、「イシ」」。そして、もう1回「あいうえお」やらせるっていう、道端に立って、3人でも4人でも5人でも全員「あいうえお」やり直しさせられる、そういう教育受けたんですよ。だから、言葉の教育、やっぱり西成瀬の言葉の教育を作った人だし、そういう意味で、大変な先生だったんだな、っていう風に思いますね。
佐藤: 変なおじいさんだとは思いませんでしたか。
高橋: 子供心に大変な先生だとわかっていだがらな。
佐藤: たまたま通りがかりで誰かがやっているという感じではありませんでしたか。
高橋: ではなかったですね。学校にしょっちゅう来て、あの、全校生徒集めてもやったり、クラスに来たりして言葉の教育やってましたしね。
佐藤: 西成瀬で生活していたら、「エシ」でも「イシ」でも困らないわけですよね。どうしてその区別を教えなくてはならなかったのでしょうか。
高橋: どういうことだったべな。「エシ」って言うともう1回やり直し、「あいうえお」やり直しなんですよ。「あいうえお」、だから、「あいうえお」の「う」も口で「う」って言うなって言うんですね。のんどの奥から出して「う」って言えっていう。道端でやり直しさせるんですよね。のんどの奥から「う」って。だから先生と会うのがいやだった。
佐藤: その教育の成果が西成瀬にとって大きく働いたっていうのはあるんでしょうか。西成瀬の出身であると、発言力がついているから、よく代表にさせられると聞くんですが。
松井: 大いにあると思いますな。ただわだしらも、東京の旅行に行くと、標準語でしゃべるのが、そうあんまり億劫でねがったですものな、だから、いろいろな会話はできであったす。
佐藤: 周りの人は無口なんですか。
高橋: 無口ですよな。相対的に秋田人っていうのは。ただ、あの、私ら古しい人間だったもんですから、あの今の横手高校があるんですよね。当時、我々はあの横手中学にはいったんですよ。こごの小学校6年生から、横手中学、で横手中学4年生になる時に学制改革で、高校1年生になったんですよ。で、当時あの、旧制中学っていうのは秋田県の南には、横手しかながったから、各小学校のできる子供が全部横手中学に集中したんですよ。で、その中で、国語とか、社会を読むってのは必ず私が指名されたんです。先生に西成瀬小学校卒業だからおまえが読めって英語とか数学はとても他の学校の子供たちにかなわなかった人ですけど、本を読んだりすることについては、先生、必ず指名するんですよ。西成瀬小学校だから。
佐藤: 学校で遠藤先生がいなくても言葉の授業はなされていたんですか。
高橋: そうですね。先生が亡くなってからも、言葉の教育ってのは伝統的にやらされてきました。
佐藤: 遠藤先生がやっていたから、ずっと受け継いで行こうってことなんですか。
高橋: そうですね。伝統、歴史として残そう。
佐藤: 小学校でどんな教育を受けられたのですか。
高橋: 私らの頃は戦争の真っ最中でしたんですけど、あの、当時の西成瀬小学校の先生ってのはほとんど遠藤先生の影響を受けた先生だち、言葉の教育で。ですから、あの、本を読むっていう機会ってのはたくさんあったんですよ。全校生徒、体操場に集められて、代表で読むだとか、みんなで言葉の教育やるっていうようなことを、集中的にやったと思います。
佐藤: それは誰がするんですか。
高橋: 先生たち、担任の先生。
佐藤: その先生たちは「エシ」と「イシ」の区別はちゃんとできていましたか。
高橋: 何なんだろな。ただ、あの、今の小学校の先生なんかも、長くて5年いると代わってしまうわけでしょう。当時我々いたころは、15年、20年いた先生がたくさんいたんですよ。直接遠藤先生から習ったっていう教師もたくさんいましたから。ですから、そういう意味で本物の言葉の教育受けたんですよ。
佐藤: 教室ではどんな訓練をさせられるんですか。
高橋: 本を読むときにきちんと、あの、標準語教育の言葉をですね、いわゆる「あいうえお」なんて、「エシ」と「イシ」の違いをきちんとやらせられたと思います。
佐藤: 教科書、プリントはありましたか。
高橋: 特別無かったと思います。「言葉の先生」っていうのはこの頃のやつ。「言葉博士」だとかね。
佐藤: お二人の頃は資料は用意されていましたか。
高橋: 特別ねがったな。先生からマンツーマンで教えられた。あるいはクラス全体で教えを受けた。
佐藤: 体育館でみんな集められてなにをしたんですか。
高橋: あの、言葉教育ですね。例えばですね、国語の教科書のうしろの方に難しい漢字がずっと書いてある。その教科書に出てくる漢字を集中的に書いた。それを読む教育もされましたね。ですから、あの、私も記憶あるんですけど、当時西成瀬小学校っていうのは、雄勝郡だったんですよ。湯沢の管内だったんです。だから当時は湯沢の視学官が時々来るんですよ。その前で、その国語の漢字の難しい言葉を読み上げさせる。その先生に見せたんだと思います。
佐藤: お二人は何年くらい違いますか。
高橋: 3学年違う。
佐藤: 言葉に関しては同じような教育でしたか。
松井: 私は、あの、終戦は小学校3年生であった。熊吉先生が来るのは1週間に2回くらいだったな。そして、発声音だけ私は記憶している。
佐藤: それはどんな教育でしたか。
松井: 「あいうえお」順に大きく口開けて空気を入れたり吐いたりする。
高橋: 「クサ」なんて言ったらだめで、「クサ」なんですね。「あいうえお」の「う」もみんな笑うんだけど、のんどの奥で「う」って言え、口で「う」って言うなという教育を受けたんですよ。
佐藤: 村のお年寄り、近所の人たちが話している言葉が悪い言葉だという印象になりませんか。
松井: その当時はそうは感じねがったな。
佐藤: 方言と標準語が2つあるっていう意識はあったんでしょうか。
松井: 私はそう思ったったっす。
高橋: 家に帰れば完全に秋田弁ですから。
佐藤: では、違う言葉を学校で教えられている感じでしょうか。
松井: 学校ってのは、言葉の発声音の正しいとこっていう感じはあったすからな。
高橋: この学校にはいって良かったと思うのは、東京に行って会議に出たり、それから銀座で仲間と一緒に飲んだりして、東京の人より標準語だと言われました。
佐藤: 「あいうえお」の「い」はいかがでしたか。
高橋: どういうことだったがな。
佐藤: そういうものだと受け入れていたんですか。
高橋: 学校の特色だと思っていましたからね。
佐藤: お二人にとって方言っていうのは、どういう役割の言葉でしょうか。
高橋: 真剣に考えたことないな、それ当たり前だと思っていだから。
佐藤: お二人の中に方言はきちんと残っていますか。
高橋: そうです。
佐藤: 今ちゃんと方言でお話はできますか。
高橋: ええ、できますね。そっちの方、むしろ得意ですから。
佐藤: 教室は何人くらいいましたか。
高橋: 小学校の時600人超えていました。1クラス50人くらい、で、1学年が2クラス100人ぐらいずつでした。
佐藤: 吉乃鉱山のお子さんもいらしたんですよね。その人と西成瀬のお子さんの言葉は一緒ですか。
高橋: たとえば東京本社の方から出張してきている、家族の子供ていうのはやっぱり東京弁でしたね。
佐藤: その子供たちの言葉をどんな印象で聞いていましたか。
高橋・松井: きれいな言葉。
佐藤: 遠藤先生が要求したのはそういう話し方ですか。
高橋: ではながった。(松井:違う。)東京弁ではなかった。子供の頃そういう区別は全然わからなかったんですけど、後になって考えてみて遠藤先生のあれってのは東京弁ではながったんだなって思うようになった。
佐藤: どんなところでそう思うようになりましたか。
高橋: 東京っていうのは、日本全国の集まり者集団ですからね。だから東京言葉っていうのは必ずしも標準語ではないのかな。だから、遠藤先生はそういう教育をしたんではないと思うんですよね。生きていく上で大変得しましたね、私。
佐藤: 発音の良さというのは東京弁とまた違うのでしょうか。
高橋: 区別つかないね、私らは。
日高: 吉乃鉱山で東京から来ている子供は何人くらいいたのでしょうか。
高橋: [東京から来ている子供はいたが]クラスに東京弁を話す人はいなかったね。
日高: そういう子供たちは周りの子供たちから浮いていませんでしたか。
高橋: 特別なかったですね。服装で断然差がつきましたな。派手な服を着てくる。みんな東京から来ている人は毛糸のセーターを着てくる。我々も着たいと思うんだが、貧乏だから、丸ごと毛糸のセーターなんて買えね。そうすると親たちが、見えるとこだけ着物にくっつけて。頭も良かったし、そういう人たちは。
日高: 遊んだりは。
高橋: 普通でしたね。
佐藤: 差別、区別、住み分けっていうのはなかったですか。
高橋: なかった。西成瀬小学校の運動会っていうのは豪華なんですよ。鉱山提供ですから、普通の小学校より断然豪華なんですよ。それから、鉱山に音楽隊があったんですよ。ですから、運動会っていうとその音楽隊が生演奏、君が代でもなんでも、その音楽隊が来てやるんですよ。
佐藤: 地元の子供は吉乃鉱山の前で卑屈になりませんでしたか。
高橋: 特別なかったな。そういう子供たちが少なかったっていうのもあるでしょうね。
日高: 親が鉱山で働いていた子供はいたんですか。
高橋: います、います。
日高: そういう子供と農家の子供は違っていませんでしたか。
高橋: 言葉では違わなかったな。吉乃鉱山が盛んな時は500人くらいいた。
佐藤: 逆に亀田とか、東成瀬の子供は西成瀬と違う言葉を話していたんですか。
高橋: 子供ながらに彼らに対して優越感はあった。当時、あの、[西成瀬地区は]雄勝郡でしたから、湯沢市に我々は行ったんですよ。そこで、あの、本を読んだり、言葉の発表をするんですよ。したら、断然差があったから、子供ながらに優越感はあった気はします。
佐藤: 明らかに差があるんですか。誰が聞いても。
高橋: そうだったんじゃないでしょうか。当時は、あの、視学官っていたからな。教育委員会かなんかで、視察が来る。西成瀬小学校にしょっちゅう来てましたから。
佐藤: リーダーになりやすい人間、自分の意見をはっきり言える人間を教育の中でつくっていったわけですよね。
高橋: 結果的に増田町の主要なポストはみんな西小だったからね。町長除いて全部、増田町役場の人も課長クラスもほとんど西成小、助役、収入役、総務課長も。
佐藤: 西小のような教育を周りの小学校はしようと思わなかったのでしょうか。あるいは、秋田県全体がそれをやろうとは思わなかったのでしょうか。
高橋: 当時そういうことを考えねがったな。何故かってのは考えなかったですね。
佐藤: 先生方は西小に行けって言われると嫌がったんでしょうかね。
松井: ある程度プレッシャーはあったと思う。
高橋: 伝統的に25年くらいいる先生がたくさんいたから。遠藤先生の愛弟子が、佐々木あさこ先生だとか。
佐藤: 昭和20年くらい。
高橋: 私は21年卒業。
日高: 先生方の中で言葉の教育に熱心だったのは。
高橋: 木口先生だとか、佐々木あさこ先生だな、20年くらい西小にいた。
日高: その先生方はどんなことを教えていたのですか。言葉に関して「あいうえお」だとか発音の練習をしていたんですか。
高橋: 全校的にそういう訓練は、常にやっていました。木口先生とか佐々木あさこ先生っていうのは、直接遠藤先生から教わっている生徒だった。そういう人たちが20年も27年も居座り状態でいた。
佐藤: 昭和20年前後で標準語のお手本っていうのは今考えると何だったんでしょう。
高橋: ガリ版で刷ったものを東京弁で読む、標準語で。遠藤先生というのは1週間に1回か2回、もう退職した後だったので、そのあさこ先生や木口先生が直す。ですから、ここに赴任されて来る先生っていうのは、大なり小なり、そういう言葉のプレッシャーを感じて来ていますから。その先生方なんかもやっぱり、言葉の先生役を引き受けてくれたと思う。
佐藤: ラジオの影響というのはなかったですか。
高橋: ラジオってのはなかったから。よほどの金持ちでなければ。
佐藤: ここに「い」という文字がある。そうすると口を横に引っ張れと全部指導されたんですか。
高橋: そういう教育ですね。
佐藤: 「い」以外にどういうのがあったんですか。
高橋: とにかく遠藤先生に道端で会うのが嫌だった。5、6人で登校する途中で全員並べさせられて、これなんだ「イシ」、もう1回「イシ」っていうまで「あいうえお」やらされた。
佐藤: 今現在お二人の中で、秋田弁と標準語の違いは何ですか。
高橋: 普遍性ですかね。
佐藤: 標準語でみんなと通じるなら方言はなくても良いはずですよね。
高橋: 日本語と外国語の違いだがも知れません。
佐藤: 秋田の中では方言を使った方が生活しやすいということですか。
高橋: そうですね。この辺では。断然そうでしょう。
佐藤: 昨日、今日と体育館で遊んでいる子供たちを見ましたが、あんまり秋田の方言は話さないですよね。
高橋: そうです、そうです。うちの孫なんかも、完全な標準語ですから。
佐藤: そのことをどうお考えですか。
高橋: それが自然だと思っている。
佐藤: そうすると方言はもう話さなくてもいい、あるいは、仕方がない。今から覚えさせるというのはどんなもんでしょう。
高橋: 高等学校時代にクラスの討論会で、方言是か否かという討論があった。私は方言是を主張してあった。
佐藤: でもお孫さん方言話さなくなっていますが、どうでしょう。
高橋: 良いことだと思っています。大きくなるにつれて良いことだと思ってますから。我々もここで勉強したおかげで、外に出たときに良かったなと思いましたからね。銀座で飲んで東京の人より発音が良いって言われましたからね。
日高: 方言自体は好きですか。
高橋: 好きです、生活そのものですからね。
日高: じゃそれをお孫さんがもう話さなくなるってのは。
高橋: 特別抵抗ないですね。うちの孫も6年生と、中学2年生いますけど、ほとんど方言っていうのは使わないですよ。
佐藤: さびしいと思わないですか。
高橋: 思いませんね。
日高: お孫さんと話すとき、意識して標準語で話しているのですか。
高橋: 秋田弁です。
日高: お孫さんは聞き取りは大丈夫なんですか。
高橋: そうですね。
佐藤: お孫さんは友達と話すときも方言は使いませんか。
高橋: そうです、そうです。完全にそうですね。学校なんか行っても完全に。たまに使うんでしょうけれど。
佐藤: 3つ選択肢があるとして、お孫さんもう大きいですけれど、今から成人していく過程で、今は標準語を話している。標準語だけ使いこなせるようになってくれればいい、方言を話せるようになって欲しい、両方を使い分けられるようになって欲しいという3つあったら。
高橋: 3番目かな、我々がそうだったからな。
松井: そうだすな。
佐藤: 方言はどこで教えましょうか。
高橋: 方言っていうのは、この辺では生活そのものですからね。世の中の進歩とともに言葉も進歩していくが、その中で孫たちが良い言葉になってます。
佐藤: 標準語というのは良い言葉でしょうか。
高橋: 外に出たときは便利なんじゃないがな。
佐藤: 方言は。
高橋: あってもいいんじゃないですか。
佐藤: 秋田だけで生活していくなら方言だけ使えればいいんじゃないですか。
高橋: 良いと思います。特別、標準語じゃなくても通用しますからね。
松井: 気取りなくて良い。
佐藤: 標準語を話していると、どこか気取りがあるのですか。
松井: ちょっとある。
高橋: 自然体じゃないからな。
佐藤: 病院に行ったとき看護婦にどっちで話して欲しいですか。
高橋: 看護婦さん、たいていこの辺では秋田弁チャンポンですよ。「いかがですか」なんて言われるよりも「なんとですか」と言われた方が親しみがある。
【文字化:今村かほる】
[戻る]