ことば調査報告
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
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祖父遠藤熊吉について
語り手: 遠藤博通氏(以下、遠藤) 遠藤熊吉孫・S.32卒業
聞き手: 日高水穂 (以下、日高) 
調査風景

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日高: 遠藤博通さんは、遠藤熊吉のお孫さんということですが、おじいさまから東京時代のことなどを、お聞きになったことはありますか。
遠藤: あの、峠を越えて岩手へ行って、今の北上、黒沢尻から汽車にのって、上京した、という話はいつも、スタートになっていたような。その前の小さいときの祖父とか、てのは聞いたことがないんですね、私は。
日高: 博通さんとおじいさまは、どれくらいの期間一緒に住んでいらっしゃったのですか。
遠藤: 私が生まれてから、小学校3年生になった夏に亡くなるまで、はい。あんまりこう多くは覚えていないんですが。
日高: 記憶にあるおじいさまの姿というのは、鮮明に覚えているというのは何かありますか。
遠藤: え、そうですねぇ。あの、いつも思い出すのは、「朝読み」ですね、今ほとんどしないみたいですけど、地主だった流れで、まだその頃、うちに、いわゆる下男・下女っていうご夫婦が同居してたんですよ。で、そのご夫婦にも3人子供さんがいて、大家族で暮らしていたんですが、朝になると、向こうの長女、それから私、というので、「朝読みしなさい」って言って、ずっと聞いてくれて、アクセントをなおしてくれて、そんな繰り返しを。ずっとありましたね。
日高: その「朝読み」というので読むのは、何を読むんですか。
遠藤: 小学校の国語の教科書でした。
日高: それは1年生の時から?
遠藤: 私はそうだったと思いますよね。でも1年生の国語ってあんまりないですよね。でも2級[=2学年上の]……、同居して、一緒に住んでいたその女の、姉さん格の人は、結構長い文章、「ローマの、昔ローマの」、ていうのがいつも思い出されるんですが、そういうのをこう、長いのを読んでいましたね。だから、今考えると、いわゆる元地主と、使われ人なんですけど、子供たち、家族、みんなこう平等に扱ってたんだな、ってこと。今思いますね。
日高: 雇われていた方の子供が3人、一番上の長女の方がだいたい同じ年齢。
遠藤: いや、ちょっと上でした。2番目の女の子が、私の1つ下だったでしょう。3人目の長男の人が、私の妹と同学年、という感じで、近かったんです。
日高: 博通さんの妹さんあたりは、そうやって朝読みなどはなさったのでしょうか。
遠藤: 私の4つ下ですから、うん、まだ達していなかったと思います。
日高: それはどれくらいの時間なんですか、教科書を読むというのは。
遠藤: 学校に行く前ですので、ええ、決まった短い時間だったと思いますけど。何かこう、発音、あるいはアクセントに、まずいところがあると、「待ちなさい」と言って、その都度、やってくれましたけど。
日高: 博通さんも、西成瀬小学校のご出身ですよね。
遠藤: はい、ここが母校です。
日高: その当時はもう熊吉先生は[晩年にあたるわけですが]、晩年は週に何回か月に何回かいらして教えていらっしゃったように聞いているんですが。
遠藤: もう本当にこう、飛び飛びになっていたと思うんですけど、おそらく私が小学校1年生の時に、特別授業をやったのが最後だったと思います。たくさんこう、参観されて、何か研究会だったんでしょうね、こう、たくさんまわりに、先生方がいらして、知らない先生方が。その中で、1年生の子に、「石」、とか言いながら、ずっと一人一人ばーって[言わせて]いって、「もう一度、もう一度」っていうふうに。僕が一番なおされた記憶が(笑)あります。
日高: やはりお孫さんには厳しかったわけですね。
遠藤: うーん、それはどうも、うちに帰ってから、「おじいさん、どうして僕をいっぱいなおしたんだろう」って言ったら、「えっ、おまえあそこにいたのか」って(笑)。もう、教育の場になると、こう、そういうのは忘れているんじゃないかな、って。孫としては、何か、ああ、ある意味すごいな、っていうのを感じましたけど。
日高: それは1年生の時のことなんですね。
遠藤: はい。
日高: そういったことは印象に残りますよね。
遠藤: ええ。だから同級生たちにこう、その日のことを言っても、「うーん、[そんなことが]あったかなぁ」、みたいな感じなんですけど、私は、すごく、何で僕が一番なおされるんだ、って。
日高: 逆にこう、誇らしくはなかったですか。おじいさんがそういった偉い先生らしい、というのは。
遠藤: うーん、そりゃあそうですよね。呼ばれて、あそこにいるのが自分の祖父だ、おじいちゃんだ、と思うだけでこう、うん、確かに誇らしくはあったと思いますけど。(笑)
日高: 地元の方々からおじいさんはどういうふうに見られていたとお感じですか。
遠藤: はい。うーん。もちろん祖父の晩年だったから、よくは分からないんですけど、やっぱり、祖父が道を歩くと、村の人たち、まぁ、集落の人たちは、隣村も含めて、やっぱり、一目置いていた感じですよね。どうもあの、という感じで。
日高: それは熊吉先生がお亡くなりになった後も、何かこう、熊吉先生の教え方を継承しようというのが西成瀬小学校に残りますよね。そこがちょっとこう、不思議なところなんですけども。ひとつの公立の小学校であるにもかかわらず、「ことば先生」の証書などを見ていると、「これは遠藤熊吉先生以来続いている西成瀬小学校の伝統です」っていうふうなことが書いてありますけども、そういう何だかこう、「創始者」がいるような小学校、というのが、特徴があるな、と思うんですけど。
遠藤: 私たちがこう、まだ在学していますし、妹たちも入ってきて、で、その頃はですね、祖父が在職していた頃、言葉の教育を受けた若い、木口わか子っていう先生がいらして、その先生を中心にこう、継承していこう、という雰囲気だったのではないでしょうかね。だから「ことば先生」とか、ああいうふうなのが出来るのは、ずっと後で、それを聞いて、うわぁ、そんな風になってるんだ、ということで、感じた記憶があるんですけど。ぱっと出来たんじゃなくて。
日高: それはだから博通さんが、在校されていた時期というのは、熊吉先生が本当に最晩年で、その後の人たちが継承していく時期ですよね。その時期の言葉の教育というのは、特に[この小学校では]言葉の教育に重点を置いている、というのはあったんですか。
遠藤: うーん。
日高: 熊吉先生がやっていらっしゃったような「い」と「え」の違い、石ころを見せて何と言うか、そういうのをやっていた先生というのはいましたか。
遠藤: それはなかっただろうと思いますね。ただおそらく、「あいうえお」じゃなくて、「あえいうえおあお」、というのを集会、児童の集会などでやり始めた時期なのかな、という気はしますけど。
日高: それは発声練習。
遠藤: ええ、そういう、はい。そこは、体育館に大きくそれは貼られていて、「かけきくけこかこ」、というのをみんなでこう唱和する。あのあたりが、初期のものかな、と。
日高: 実際にそういうのを体験されたわけですね。
遠藤: うーん、確かにこう、木口先生を中心にそういう、こと、母音を加えてやった記憶は、あるように思うんですけど、ただ言葉、言葉っていうことを、強くは言ってなかったような気もするんですよね。うん。
日高: 博通さんご自身は、自分の言葉に注意が向くようになったのは、おじいさまの影響というふうに感じますか。そうではなく、その後のいろいろな経験による部分が大きいとお感じですか。
遠藤: やっぱり祖父だったと思いますね。祖父は、方言も一生懸命研究していたことが分かるんですけど、あれは、小学校に入って、出がけに、この辺では一番短く「ガッコサイッテクル」っていうふうに、朝の挨拶がわりに言うんですけど、「待ちなさい、博通。「学校に」とか「学校へ」。「学校さ」っていうのはいけません」というんで、そういうふうに、日常の中で、きちんとしたことを、その都度その都度、教えてくれてた、って言いますかね。だから、子供心には、友達と同じように「学校さ」って言いたいな、という気はあったんですが(笑)、それのこだわりからがスタートだったのかな、という気はしますね。
日高: そういうのは、反発は感じなかったんですか。
遠藤: うーん、小さいですからね。「こうしなさい」とかいうことでなく、ピッピッと押さえてくれる、やっぱり祖父は威厳がありましたからね。おっかない、という意味じゃないんですけど、うん、こう、話してて、背筋がこう、こうなってくると、側にすわっていると、こうピッと、親指で、「博通」、ピッとやるから、スッと、その都度、そんな、それがスタートかな、と思いますけど。
日高: お父さまは、おじいさまから、指導を受けた、という、そういう話はされましたか。
遠藤: ああ、私の父ですね。うーん、そういう話は、特に聞いてはいない、ですね。
日高: お父さまも、そういうピッとされたりは。
遠藤: ああ、姿勢はすごくいい人でした。
日高: お父さまからもそういった言葉について注意を受けたということはありますか。おじいさまではなく。
遠藤: うーん、父からは、特にはない、と思いますね。ただこう、生まれたときから、もうすでに、こう、例えば来客とか、そういったのには、きちんと正しい言葉、正しいっていいますかね、こう、方言でないものできちんと対応できるように、みたいな、そういう雰囲気は家の中にありましたね。村の人は、そうじゃないんですけど。よく祖父をたずねて遠くから、たくさんの人が見えましたよね、晩年に。その都度、挨拶の仕方とか、はい。
日高: たずねて来られる方というのは、指導を受けにたずねて来られていたんですか。先生方かなにか。
遠藤: そうではなかったですね。何か、割合にこう、高齢ではなかったかもしれないですけど、現職ではない雰囲気の方々が、よく見えてましたね。あれは、言語学だけでなくて、祖父はあの、書道がすごかったんですよ。そういう関係の方々もいたんじゃないかと。掛け軸をこう鑑賞しながら、よくいましたからね。
日高: 非常に多才な方なんですね。
遠藤: うん。多才だと思いますね。
日高: では、学校の教師として、ということ以外に、おじいさんのことを何か、記憶など、その頃になさっていた書道のことなど、何かありますか。おじいさんはこういうことが得意だった、とか。
遠藤: おじいさんの得意分野、というか、言葉以外では、祖父は、本を読んでいる姿とか、割と寡黙な人だったと思うんですけど。横座って分かりますか。座敷の横座がいつもの居場所で、そこで本を読んでいるか、指でこう、書を書いているんですよ。墨でなくても、イメージで書いていくんですよね、こう、囲炉裏の灰を、こう、ならして、火箸でこう、で、またこうならして。それが終わると今度はこう、指で、ここにこう書いているんですよ、膝頭のところで。そういう姿がいつもこう、思い浮かびますね。
日高: 「朝読み」以外で、言葉の指導というのは受けていましたか。「学校さ行く」というのをなおされた、とかそういう。
遠藤: それがまず、代表的なことで、あとキツネ、とかタヌキ、とか、そういったのをこう、「博通いらっしゃい」と言って、「キツネ、とかタヌキ、とこの辺では言うけど、本当はこっちのほうがいいんだよ」って。何か今思うと、こう黒い丸のついた、そんな感じのもので、教えてくれたようにも思うんですけど、アクセント表なんでしょうかね。
日高: 黒い丸、白い丸も。
遠藤: 高さを表していたように。
日高: それでは線でひっぱったような。
遠藤: ええ、ええ、キツネ、タヌキ、とか。はい、そういったものだったと思います。
日高: そういった、方言と標準語の違い、というのは、小学生だとなかなか意識しにくいところですよね。2つの違う言葉がある、というのをどう思われていましたか。何をなおされていると、感じておられましたか。
遠藤: うーん、当時、共通語、というのはあまり使わず、標準語、これが多かったと思うんですけど、要するに、日常使っている言葉とは別、別っていいますかね、こう、日本全国共通に話せる言葉ってのがあるんだな、と、それを祖父は言っているんだな、と。「エンドウではないぞ、エンドウだぞ」。要するに例えば、「エンドウだよ」。そういうふうな、こと、でしたね。
日高: この辺りで、地元で使っている言葉というのは、どういう言葉と感じていましたか。いい言葉、悪い言葉。
遠藤: うーん、悪い……、うーん、悪い……。
日高: なぜなおさなければいけない、と祖父は言っているのか。
遠藤: うーん。そうやって考えたことはあまりなかったかもしれないですね。はい。うーん。実際は、こう、子供たちは方言を使ったり、ころっと変えて、標準語で話したり、ってことは、使うべきところでは使っていきてた、ように思うんですけど、その程度の認識、だったでしょうかね。うん。
日高: では、おじいさまが、方言を使っている場面、というのは、見たり聞いたりしたことがありますか。いつも家の中では。
遠藤: 端然として。はい。
日高: しゃべる言葉は、標準語だった、ということですか。
遠藤: ああ、方言も話してたかもしれないですよね。でもあんまり記憶がない……。方言はすごく関心のある人だったので。富山から、薬売りが見えますよね、そういった行商の方がしょっちゅう来るんですけど、他所から来た、というと、「まあまあまあまあ、あがってあがって」、すると祖母が「またはじまった。この忙しいのに」。「ばあさん、お茶」って言って、お昼までかかるとご飯を出して、で、ひたすら、富山の方言における語彙、というんですかね、言っては意味を確かめて、メモして。
日高: では、秋田の地元の方言に興味がある、というだけではなくて、日本全国の方言に興味がある、そういう感じだったんですか。
遠藤: ええ、あらためて昨日、北条[常久]先生や大野[眞男]先生と読んだ本を調べてみたら、各地の方言の本を集められていましたね。はい。
日高: おばあさまはどんなしゃべり方をされていたんですか。
遠藤: 祖母はまったく、方言で、話してたと思います。
日高: ではおじいさまは、孫には言葉づかいを訂正したりはしても、自分の奥さん、おばあさまには特に言葉をなおせ、というふうには。
遠藤: そういう場は記憶にないですね。その前に、トライしてあったのか、やっぱりダメだったな、ということだったのか(笑)、分からないですけども。
日高: おばあさまは、西成瀬の方ではないのですね。
遠藤: ええ、出身は、隣の平鹿町。比較的近いんですけど。ただ、来客との場合は、言葉そのものは、方言、だったんでしょうけど、その、態度っていいますかね、物腰っていいましょうか、下女の方も含めて、非常に丁重に対応できる人たちだったなぁ、という気は、ありますね。遠藤熊吉の家族だ、っていうふうなこう、一種のプライドのようなものを持っていたんでしょうかね。うーん。で、ま、飛び飛びですけど[=話が前後しますが]、その、2期上だった、一緒に住んでいた女の子が、やがて中学校を出て、就職で東京に行ったんですよ。で、最初に帰ってきたときに、その、もう、祖父はいないんですけど、家の外でばったりうちに来ようというときに、家族とあったら、高い声でね、「おじいさんのおかげで、私は東京に行って、言葉でとってもほめられてる」、っていうのを、誇らしげにこう言った記憶が、あるんですよ。「昔ローマで」って言った、「朝読み」をなおしてもらった人が、ね。
日高: 博通さんご自身は、その後育っていくにしたがって、そういった言葉の点で、おじいさまから指導を受けたことが、役に立ったなと思ったことはありましたか。
遠藤: ひとつひとつの言葉を教えてもらったことはもちろんないわけで、本当に数は少なかったんでしょうけど、やっぱり、熊吉の孫だ、ということは、やっぱりしっかりしなきゃいけないな、ということを感じましたね。だから、方言では話せるし、ぱっと、その場にいったら、きちんと標準語でも話せるようになりたいな、という気持ちはずっと持ってましたね。妹たちも、そんな気持ちでいたんじゃないかと思いますけど。
日高: 博通さんご自身は、方言はどういう場面で、家族とお話しになるときは方言で話されるんですか。
遠藤: あ、もちろん、家族、周辺ではほとんど方言ですけど。はい。
日高: 中学校、高校と進学していくと、まわりの友達は結構方言を使っていたんじゃないですか。
遠藤: ああ、たくさん使ってますよ。
日高: そういう人たちと話すときはどちらで。方言のほう。
遠藤: やっぱり方言じゃないですかね。ただ、こう、友達同士でも、たとえば何といいましょう、生徒総会とか、委員会とか、そうなると、はっきり。この小学校から行った子たちはほとんど。もうひとつこう、東から来て合流するんですけど、こっからの流れはやっぱり、ありましたね。
日高: 西成瀬小学校の出身者は切り替えがはっきりできたというわけですね。
遠藤: ああ、だと思いますね。ですから向こう、合流した子たちもやはり、自然にそうできるようになっていくんじゃないですかね。
日高: では西成瀬小以外の出身の友達っていうのは、どうでしたか。そういう切り替えがもともとできていたのでしょうか。
遠藤: そういう感じはあまりなかったですけど。
日高: 西成瀬小出身者の影響を受けてできるようになった、ということはありそうですか。
遠藤: どういうふうになっているか分からないですけど、こう、うーん、やっぱりこう、きちんと、公式の場では、話ができる、そういう姿勢ができていったんじゃないでしょうかね。西成瀬中学校っていうのも、人数は少ないけれどもまた非常に誇りが高い中学校でした、はい。
日高: その誇りというのは、どうやって継承されていったんでしょうか。学校の誇りというのは。
遠藤: うーん、それはやっぱり……。
日高: 遠藤熊吉ひとりによるものなのでしょうか。
遠藤: うん、そうではないと思いますね。うーん、ま、熊吉の果たしたものはきっとあるんでしょうけど、そういう、確かに、熊吉を生んだ風土っていうのはあったんでしょうかね。だけど先生方の、学校に対する愛情っていいますかね。中学校3年間いるだけで、先輩たちを見習って、ああいうふうな先輩たちになりたいな、となって、自然になっていくっていいますかね、やっぱり教育、先生方のチームワークだったと思いますね。
日高: その当時は中学校は、西成瀬にひとつ、今の増田町の中ではいくつ中学校があったんですか。
遠藤: 増田中学校と、西成瀬中学校と、上畑中学校。
日高: 何かこう、対抗意識というようなものはあったんですか。中学校同士。中学校同士での交流というのはあまりないんですか。
遠藤: ない、うーん、こう、体育祭、地区体育祭のようなものはありましたね。うーん。でも、ライバル意識っていうのは、特にはなかったんじゃないですかね。
日高: 地域の中にこう、西成瀬中学校は特別だ、っていうようなのはあったんでしょうか。
遠藤: うーん、自分たちではそう思ってましたけど(笑)。ただ、高校に入ったんですよ、横手市内の高校に行ったんですけど。小さい学校から二人だけ行ったんですよ。入学式の次の日ですかね、二人でこう、ジャノサキ橋っていう橋があるんですが、そこを、汽車に乗るんで急ぎ足で、先輩が4人くらい前を歩いてたんですね、横になって。「さよなら」って言いながらこう通り過ぎようとしたら、「待て」って言って。それはどうも、私たちが西成瀬中学校の子だって分かっていて。「標準語なんか使って生意気なやつらだ」っていうので、小路に連れていかれて殴られたんですよね、はい。もう一人の子は前歯を折っちゃって。なんでこう、標準語を話すことがこういうことになるんだ、というので、ものすごい矛盾だったんですけど。ということは、外からは、西成瀬をそうやって見てたんだな、ということが、今、日高さんの質問で、こう、分かった感じですね。
日高: そうすると、そうやって特別視されないように方言を話そう、というようなことになってしまいましたか。
遠藤: 一時そうも思いました、が、それは、うん、しばらくしたら、やっぱり消えていって。やっぱり県南地区からたくさん集まっている学校ですからね、そういう時にクラスで発言なり何なりをする場合に、質問に答える場合でも、きちんと答えるっていうのは、大事だな、っていう気持ちがやっぱり、ありましたね。
日高: そうやって、標準語なんて使って生意気だ、なんて言うような人たちは、教室の場面ではあまり発言をしなかったわけでしょうか。
遠藤: その人たちは上級生だったから、うん。同学年では別に。「何か、西成瀬って言葉がきれいだって聞いてきたよ」とか、そういうことはよく言われましたよ。「やっぱり」とか。でも、熊吉だけでなくて、西成瀬中学校には、そもそも標準語を話す子たちが、たくさんいた……、たくさんっていいますか……。鉱山があったでしょう、鉱夫たちがこの周辺、あるいは、移住してきていたんでしょうけど、いわゆる役職がある方々は、みんな東京から、役宅に住んでらして、かなり知識レベルも高く、そういうところのご子息たちも、一緒に入ってきていたわけで。
日高: そういう方々は、だいたいクラスに何人くらいいたんですか。
遠藤: まあ、数名、くらいですけど。
日高: 1クラスは何人くらいですか。
遠藤: 30人ぐらいですかね。うん。でも、こう、小さな学校ですから、全部あわせれば、結構いた感じで。同級生にも、熊谷真寿男君って方がいらして。
日高: その子供たちは、地元の子供たちからどういう風に見られていたんですか。浮いてましたか。
遠藤: いや、浮いてない、ですね。みんな仲よく、みたいな指導が、自然になされていた感じがするんですよね。クラスはいつもひとつで。同じ学年はみんなひとつで行こう、みたいな感じで。だから特別視、どんな貧しい場合だって、特別視とか絶対ない、そんな雰囲気でした。
日高: ケンカとかイジメとか、そういうものはなかったわけですか。
遠藤: うーん、小さいのはあったりするけどね。でも、極端なイジメとか、おそらく、そんなことをしたら周りは許してなかったと思いますね。まぁ、各学年そうなんですけど、私たちは、中学に入ったときに2クラスで、クラス担任同士が仲よくて、クラスもそうですがね、ひとつの学年60人くらいが、「虹の仲間」っていう名前をもらって、これでいこう、っていったら、俺たちはずーっと「虹の仲間」だって言って、卒業しても、何十年たっても、この間還暦も、「虹の仲間」っていって、そうやってつながっているので、イジメとかそういったのはないじゃないですかね。そういう雰囲気が各学年にあったのだと思いますし、だからプライドは、自然にできて。
日高: では今でも、その当時の友達の方々と交流があるわけですね。
遠藤: はい。あります。東京からも来ますしね。はい。四十二をやってから、あと還暦までやらないぞ、って言ったら、次の年からも、待てない、って言って(笑)、何回やってるか分かんないですよ(笑)。
日高: えーと、1学年がだいたい何名くらい。
遠藤: 鉱山がまだあった時期で、60人ぐらい。で、在学時代、かなりこう、鉱山の不況に入ってきたので、転勤していく、家族が出てきましたね。
日高: 転勤していく、というのは、役宅の子供たちですか。
遠藤: ああ、役宅も含めてですね。
日高: 鉱夫の人たちもどんどん出ていくということになったわけですね。
遠藤: はい。こっちの長屋とかで暮らしてても、いわゆる、リストラ、でしょうね。それで、他の鉱山に行くとか。何度もさよならの会を。
日高: 今、付き合いがあるという方は、最後まで地元に残った人たちということですか。
遠藤: 地元にも、半分以下、ですかね。帰ってきた子もいるから半分くらいでしょうか。集団就職の、時期ですから。高校に行ったのは3分の1。残りは、全部就職。ほとんど県外ですね。ただ向こうに行って、言葉では苦労しなかったって、みんな言います。
日高: 熊吉先生はその時点では、もう西成瀬では教えていないわけですよね。それでも言葉に苦労しなかった、と言える、そういう教育がどういう内容だったのか。教育そのものより、そういう役宅の子供、標準語を話す子供がまわりにいたことっていうのが、やっぱり大きかったのでしょうか。
遠藤: それは違うように思いますね。そういう子たちも、隔てなく受け入れる要素はあったにしても、こう、正しい言葉っていうのがあるのか分からないけれど、標準語も使えるようにあるべきだ、っていう雰囲気っていうのが、親たちも、祖父母たちも、熊吉からここで習ったりしているわけで、一時はまず、何かこう、言葉だけを教える人みたいに、変人みたいに思われていた時もあったと聞いているんですけど、次第にこう、定着していったんだな、って。ええ。そうですよね、熊吉の直接の教えを受けた、ぎりぎりまず、小学校1年生、それ1回きりですからね。はい。あとは地域の人たちの、ひとつの共通した認識になっていたのかな、とは思いますね。
日高: その認識を作り上げたのは、おじいさまがいたことが一番大きな原因だと思うんですけども、この地域の中でそういった標準語を受け入れやすい、そういったもので、地域の中での日常の言葉っていうのを、方言ですよね、方言に愛着を感じるのではなくて、標準語がいいって思えるのは、共有された、どういうものだったと思われますか。
遠藤: 方言を、うーん、否定しているわけではなかったと思うんですが、うーん、いい言葉も使えるよ、っていうふうな。もし、方言が、こう、すべてで、正しい言葉、標準語っていうのが、たまたま熊吉の力だけでやられたとすれば、彼が去った段階で消えるはずなんですけど、無意識のうちに地域の人たちに残ったっていうことは、そうありたいな、っていうのがあったからでしょうかね。
日高: そうありたいな、という気持ちが、西成瀬に特にあるという理由は、鉱山がある、ということが関係していたというふうには思われませんか。
遠藤: でも鉱山っていうのは、こちらで、周辺から、いわゆる自宅から通った人もいるし、うちの村にも、集落にひとりいたんですけど、たいがいは長屋に住んでいました。川向かいの人たちがそうだったら、役宅の言葉に染まったってことですよね。川のこっち側の人たちは、非常に強くこう、標準語っていうのにこだわり続けた、って言いますかね。今、かなり高齢の人たちも、いまだに。
日高: 地域間の交流というのは[いかがでしたか]、鉱山のあった吉野と川のこちら側の安養寺では、集落同士はそんなには日常的に付き合いというのはないんですか。
遠藤: うーん、そうですね。あそこはひとつの経済圏だったんですが、販売等、最先端のものが入ってきたんですが、映画館もありましたしね。そういう世界なんですが、そこに物を買いに行くとか、ということより、やはり、こちらはこちらの、小学校のそばの、小売店、酒屋さんに直結した経済圏があった、と思いますね。
日高: 生活のレベルは、鉱山の周辺のほうが高い、というようなのは。そういうのにあこがれる、というようなのは。安養寺の人々が吉野の鉱山の人々の生活を見て、「ああ、いいなあ」というようなことは。
遠藤: ないんじゃないですかね。生活レベルというのは、こちらはまず農家がたいへん多くて、あの周辺は鉱夫さん家族。ほとんどの鉱夫の方たちっていうのは、その、特別に作られた、沢目に作られたオオサワダイマチっていう長屋、そこの人たちですから、遊びに行ったことはあるけど、この辺の生活はいいな、とか、互いにこう、いうことはなかったんじゃないですか。役宅の方々は、確かにこう、インテリたちも多かったんですけど、住んでる役宅自体は小さなもので、それからこう、経済力をうかがわせるとか、そんなのはなく、みんな同じような作りで、いわばちょっと大きな長屋、みたいなね。そんな雰囲気でしたから、豪邸に住んでいるとか、そんなのではなく。うん。ただ、こう子供たちがとってる、小学何年生とか、っていう月刊誌とか、ああいったのは、町の販売店よりもはやく、こちらにくるので、それはみんないつもうらやましがって。
日高: 読ませてもらうわけですね。
遠藤: 読ませてもらう。必ず次の日持ってきてくれて。続きの漫画をみんなで読んで(笑)。
日高: じゃあ結構仲が良かったんですね。
遠藤: ああ、そうです。そのまんま中学校に行っちゃうので。
日高: 遠藤家というのは、安養寺の集落の地主だったわけですよね。
遠藤: あ、そうですね。はい。
日高: 地主ということで、それだけで一目置かれると思うんですけども。
遠藤: それはそうだと思います。はい。
日高: 代々、この地域に根差したというか。
遠藤: うん、そういったのはあると思いますね。うーん。没落地主、いわゆる、地主はみな没落したわけですから、戦後の大変革の中でも、うちの祖父母は、一応こう、周囲からは、そういう目で見てもらえてたんじゃないですかね。経済力はがた落ちになったはずですけど。ああ、熊吉じいさんが通る、っていう感じでね。十文字も含めて最初に自転車を購入したのはねぇ、二人、十文字に一人、もう一人は熊吉で。外国製の。で、姿勢がいいですからね、直角に運転して、あいさつすると、あ、あ、って[挨拶を返す動作をし]、そういう感じでしたね。確かにこう、熊吉じいさんが行く、って、そういう感じで(笑)。ずっと。
日高: 教師として、というよりも、その地域の名士として、一目置かれる……。
遠藤: うーん、そんなところもあったのかな、と思いますよね。
日高: 熊吉先生がおっしゃることであれば、これは守らなければいけない、というような、そういう感じで、地元の方に受け入れられていたというのはありましたか。言葉以外の生活の面でも。熊吉先生のように姿勢を正して、というような、そういうのが浸透していくというようなのは。
遠藤: (笑)どうでしょうかねぇ。うーん、私の記憶では、言葉以外は、うん、浮かばないですけど。うーん。
日高: 安養寺の集落全体が、そういう標準語教育を良いものだ、ということで、学校でも子供たちにもそういう教育をするべきだっていう。
遠藤: 安養寺、荻袋、熊渕、この辺りには、何かこう、そういう雰囲気があったんでしょうかねぇ。うーん。
日高: 吉野は少し離れているっていう意識ですか。
遠藤: そうではないです。あの、さっきの、和春さん、季子和春さん[=現西成瀬地域センター所長]のお父さんと、私の父は、もう大の親友で、生涯を通しましたし。吉野といっても結局、そのヘグリを通ってここに毎日通って、で、帰っていくっていうことですから。隔たりはなかったと思いますけど。季子さんたち、あの、吉野でも、やっぱり標準語についてはかなり敏感だったんではないですかね。
日高: いろいろな方からお話しをうかがっていて不思議に思うのは、皆さん一律に遠藤熊吉という人を、本当に尊敬していますよね。で、どういう教えを受けたかも、非常に限られた事例なんだけれども、皆さん同じように、「イシ」と「イス」について、それから、喉から「ク」という音を出すとか、そういう指導を受けた、ということおっしゃるようなんですが、言葉の教育に関してこう、代表的な事例ばかりを皆さんが記憶していて。
遠藤: そう、ですね。私も含めて、そう、だと思うんですが。
日高: それがどうやって継承されたか、というところで、言葉に自信が持てた、それが地域の中で、そういう教育が良いものとして支持された、ということのようなんですけれども、一人の人の影響がどうしてそこまで伝えられたのかな、というのが不思議で。
遠藤: うーん、そうですよね。この調査が始まって、私自身もちょうど自分が体感したんですけども、ねぇ、亡くなってもう、半世紀以上、それでなお今、こうやって調査対象になる、ってことはすごいことなんだな、って、同じ教員として、思っちゃいますよね。うーん。でも今こう、考えてみますと、祖父の後、ここにたくさんの先生方が赴任されましたよね、でも、この西成瀬地区から、ここに勤務なさったっていうのは、木口わか子先生、とか。
日高: あまり多くはないですよね。
遠藤: はい、ほとんど転勤でここに見えられて、で……。
日高: それがまた不思議ですよね。自分が受けてきた教育じゃないのに、西成瀬に来たらそういう言葉教育をやる、という。
遠藤: ひとつのまた、葛藤があったと聞いてますけど。それまでいた先生のやり方に新しく来た先生が、これでいいのか、と。だからかなり曲折があるはずなんですけど、ただ、それをつないでいこう、という気持ちは変わらなかった、っていうのは、すごいな、と、はい。
日高: それは、学校の中で継承されていた、ということでしょうか。それとも、自分がそういった教育を受けてきたから、という親の要望が強かった。地域の中で西成瀬小学校ではこういった言葉教育をやってきたんだからやってくれ、というのが強かったのか、どちらが。
遠藤: PTAで、強くそういう要望をする、ということはやってないから、スルッていうことでしょうからね。地域からこう、突き上げがあったような雰囲気はなかったんじゃないかと思います。草分けは、木口わか子先生あたりで、それを受けて駒木先生とか、で、それを地域住民も支持し、関わりたいな、ということで、子供たちもそれを受けて、言葉先生、というプライドを持って、ということだったのかもしれないですね。
日高: それは、西成瀬小学校だけで止まっていて、この地域のまわり、熊吉自身もいろいろ参観を受けていますよね、全国各地から。それは他の地域に広まらなかったのは、なぜなんでしょう。
遠藤: そこは……。木口わか子先生も、こっから、湯沢市の山田小学校、ですかね、行って、ここで受けたものをぜひ、と思って、やろうとしたんだけど、壁があまりに厚く、結局、できなかった、というお話を聞きましたね。
日高: その「壁」というのは、標準語なんて教えなくてもいい、という、そういうことはないと思うんですけども。
遠藤: その辺の……、うーん。ですよねぇ。うーん。どうしてでしょうねぇ。
日高: 秋田県の中でも国語教育に関して流派みたいなのがあるんですか。
遠藤: それは私は分からないですけど……。
日高: 長年教師をなさっていて、各教科ごとのこう教えるべきだ、という、流派というようなものは。
遠藤: 感じたことはないですね。はい。感じたことはなく。祖父が亡くなったあと、この学校で、たとえば木口先生がひとりで、頑張ろうとしても、それを周りの教員が支持しない限りは、定着しないですよね。それをこう、先生方も、かなり支持し、協調したから残ったことで。それで、ぽん、といって、ある学校でそれをやろうとしたときに、浮いちゃうと、やはりできなくなってしまうのかな、と。ここに見える先生方は皆、こう、今度転勤で西成瀬小学校に行く、というと、もう、びびったって言いますから。ええ。ですから、周りの、周辺にぽんと行って、私は西成瀬でこういう教育をしてきたからやりましょう、と言っても、なかなか一朝一夕には、できないのかな、と。木口先生の話は、本当にこの間、聞いたばっかりなんですけど。
日高: そうするとその当時からもう西成瀬小学校の教育方針っていうのは、独特なものだというのは、周辺に伝わっているわけですね。
遠藤: はい、当然もう、伝わっていると。
日高: それは、どういうものと考えられていたんでしょうか。独特なことを、単独でやってるよ、というふうに、浮いた学校というふうに。
遠藤: 何か、こう、周辺の中学校とか、いろいろあったんでしょうけど、方言を否定する教育みたいなことに、すり替わっている部分がかなりあるな、って。かなりものの分かった先輩教員でも、遠藤熊吉の教育っていうのは、一方的だ、みたいなことで批判されたこともあるんですよね。うーん。結構難しいことだったのかな、って。高校で、先生方も含めて、「西成瀬出身だってね」っていうことはよく、同級生にも言われて、「聞いてるよ」って。
日高: 一目置かれる学校ではあった。
遠藤: あったと思いますね。はい。
【文字化:日高水穂】
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