標準語村の生成と展開
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北条常久(秋田市立中央図書館長)
4.遠藤熊吉の標準語教育

 そんな状況下に遠藤熊吉の指導する西成瀬村だけで唯一澄んだ音声の標準語が話されていた。遠藤熊吉の標準語教育は、彼の唯一の著『言語教育の理論及び実際』(遠藤熊吉先生顕彰会、昭和44・10・11)を見るしかない。彼には、その他には論文も実戦レポートもない。
 『言語教育の理論及び実際』の目次は以下の通りである。

(一)言語教育の諸問題
  一 生活表現と言語教育
  二 言語教育と国語問題
  三 言語教育と文芸的陶冶
  四 聴方教育と言語教育
  五 言語教育と音声的陶冶
  六 言語教育と朗読法
  七 言語教育と話方
(二)話方教育
  一 話方教育の目的
  二 話方指導と表現
  三 話方教育の材料と機会
  四 話方教育の方法
    (1)話方の様式
    (2)話方の指導
    (3)話方の批評
    (4)話方指導の実際
(三)方言訛音矯正法の一斑
(四)結論

 この書の冒頭は、次の通りである。

言語教育に於ては、初め言語ありからではなく、初め行動あり、生活ありから出発しなければならない。言語は人間の思想、感情、意欲等総じて生活の、音声による表現である。従て言語教育は言語表現、即ち言語活動、言語生活の指導であり、究竟は生活指導に迄遡らなければならない。乍併表現の指導と生活の指導とは全然別箇のものと言ふのではない。言語教育に於ける生活指導は種々の方面から考へることが出来るけれども、本来表現そのものが、既に、生活の根本的な相であるから、表現を指導することは、取りもなほさず一の生活指導に他ならないのである。而して言語教育は生活に始まり、生活の問題に終るといっても過言ではない。児童の生活は、常に、その環境との密接不離の相関々係によって観られねばならず、従て言語教育は、単なる抽象的な言語教授に終始することなく、此の環境裡にある児童の全生活から出発しなければならない。言語活動と生活との相互関係から、生活を言語表現に反影せしめると共に、言語生活を啓培することによって生活一般を指導して行かなければならない。故に言語教育は抽象的、形式的な言語指導に甘んずべきではなく、具体的な言語活動、言語生活の積極的指導に努力すべきである。

 このように遠藤は、「言語教育は、初めに生活あり」で、「言語教育は具体的な言語生活の積極的指導である」と主張する。
 この『言語教育の理論及び実際』は、明治28年に教職について昭和3年に退職を機に33年の経験をもとに著述した書であり、上はその冒頭だけに彼の理論の根幹をなす。
 この点について、黒川孝弘は、「遠藤熊吉におけるキーワードとしての『言語生活』」(早稲田大学大学院教育研究科紀要 別冊8号−2、2001年3月)で次のように書く。

国語教育者が「言語生活」の語を使用した初期は大正初期であり、その使用者のほとんどは大正自由主義教育の学校の訓導であった。そして大正自由主義教育以降、昭和初期までには何人かの国語教育者の間で「言語生活」の語が使用され始めている。その中で「言語生活」の語を使用し、理論構築したのが秋田県西成瀬村の西成瀬小学校で標準語教育をしていた遠藤熊吉である。

 この文章で黒川は理論構築というが、遠藤の理論構築はあくまで実際をもとにした構築である。
 このような遠藤の言語教育であるから、普通、言語教育は、「話す」「書く」を重視しているが、彼は、「聴く生活が、話し、書く生活に先行する」として聴方教育を重視する。
 遠藤は、聴方指導とは、「言語を言語活動そのものの姿で聴き、語彙を収得し、言語の意味話の内容を適確、迅速に捉へる」ように啓発すべきだとする。
 さらに彼は、「言語の生命である微妙な語感、語調は専ら聴方によって捉へる」として「言語活動の真実相は聴方によってのみ把握される」とする。
 言語指導においてこれほど聴き方を重視する指導法は類を見ない。
 しかし、考えてみれば、言語生活の中で聞く生活が私達にとって一番多い時間である。遠藤は、話すことだけの教育である伊沢修二の視話法を、「聞くところがない」と批判したそうである。視話法は発音矯正の一方法で、発音の際の口の動き方を記号にしてこれにより発音運動を知覚し、音を耳にしないで発音を修得する。
 遠藤熊吉は、話方の様式を「対話」、「独演」、「討論」の三つとするが、「対話」を最重要視している。これも彼が話す場面の実際は、対話が一番多いからという考えからであろう。
 彼は「対話形式が言語生活の常態である」として、「言語活動の実相は、対話形式に最もよくあらわれる」とする。さらに彼は「対話において言語は特に精彩を帯び、一層能動的になる」として対話の心理活動で「言語機能、言語活動が発達し、複数、微妙となるので、特に対話を重視」というのである。
 『言語教育の理論及び実際』には話し方の実践例が多数あるが、対話の例が圧倒的に多く、「対話が出来れば独演も出来る様になる」と遠藤はいう。
 遠藤熊吉の話しことば教育は言語生活という語で表現されるように、ことばは生活の中で使われるものであるという前提に立つから、彼の話しことばの題材は生徒達の日常生活であった。
 実例を『言語教育の理論及び実際』から1つ引用する。1年生の初期のものである。

カツ。 ミヨサン。
ミヨ。 ハイ。
カツ。 アナタハキノフ何ヲシマシタカ。
ミヨ。 私ハキノフ学校カラカヘッテ、勉強シテカラ、オカアサンカラ、カメトウサギの話ヲキゝキマシタ。
カツ。 私ハ、カヘッテカラ、外ニ遊ビニ行キマシタ。ミヨサン、アナタハ何ヲ勉強シマシタカ。
ミヨ。 カラスノトコロヲカキマシタ。
カツ。 私ハスズメノトコロヲ書キマシタ。
ミヨ。 アナタハカラスハタクサンカキマシタカ。
カツ。 私ハ一回カイテアソビニイキマシタ。
ミヨ。 ドコデアソビマシタカ。
カツ。 ソトデナハハネヲシテアソビマシタ。

 このような日常生活のなめらかな会話から次第に社会的視野が広まっていく。だから、遠藤の標準語教育を徹底させるためには標準語教育に見合った環境が必要になる。
 遠藤熊吉は、「言語教育の要諦は、よき環境を作り、言語の醇化、国語愛の大理想を徹底させる事にある」と述べている。
 方言で生活している環境で標準語教育はできない。学校という方言社会から切り離した環境で初めて標準語教育が可能になる。
 次の点を彼は強く主張した。

最も緊急なことは、入学と共に、直ちに発音矯正を始めることであるが、入学時、生活の転換期には、総てものを、容易且つ自然に受容する事が出来る。此の時期に矯正を怠る事は、虚しく矯正の好機を逸するに等しい。

 方言社会で標準語教育のできるのは唯一学校なのである。
 そして遠藤熊吉は、言語と社会を一体のものと考えるから、西成瀬村のような方言社会で方言を使用することを禁じはしない。
 遠藤熊吉の標準語教育は、方言撲滅とは違い、方言を肯定しながら行なう理想的な標準語教育なのである。
 彼の標準語教育の大きな特徴が、その場面での使いわけにあった。学校では標準語、家庭では方言。学校というあらたまった公的場では標準語が優先する。
 また、彼は訛音(なまり)を矯正するのに体系的に矯正しようとはしない。だから、たとえば小泉秀之助の『発音と文法』のように発音を文法と結びつけようなどとはしない。遠藤は西成瀬村の人々が陥っているなまりの部分だけに焦点を当てて矯正する。
 遠藤熊吉は西成瀬村の住民は、「母音のイ、ウ、エは訛音で、イ列、ウ列、エ列の子音が不正確で、シ、ス、セは訛音である」と指摘し、その矯正に全力をあげる。
 その矯正法を彼は次のごとく解説する。

 訛音『イ』は稍々舌頭を下げ、下歯を圧して発音する。之を矯正するには、標準音の口形舌動を示し、舌の前部を高める事によく注意させる。訛音『エ』はともすればイ、エの中間音であって標準音『イ』を訛音『エ』の如く聞取り、歯を離す者がある。此の『イ』音を言はせるには、必ず児童の歯を見て、開くことのない様に注意する事が肝要である。之でも、なほ了解しないものには、下歯の齦を箸などにてつき、此の部分を舌で圧さない様に注意してやらねばならぬ。
 訛音『ウ』は唇音なれば、唇を使はない様にすること。標準音の如く舌の後部を高く上げることをよく説明せねばならぬ。幼年児童は特に舌を引込め、舌の先を下げるといふ方が分り易い。
 カ行の『ク』音が出来た時に『ウ』を練習すれば『ウ』音の発音に困難する者も容易にできる。
 エの訛音はイ、エの中間音での開きが足らないから、標準音エの練習には拇指の先を平にして歯間に入れる位の間隙をこしらへて発音する様に練習させねばならぬ。
 カ行の『キ』、『ク』は訛音である。訛音キは舌根を下げ、舌頭を下歯に当てゝ発する磨擦音の様である。標準音の如く、奥舌面と軟口蓋とを閉鎖させて発音させねばならぬ。訛音カ、コ、ケ等を無声音にて強く発声させて、舌動の状態を覚らしめ『キ』音を練習させるがよい。クはカ、ウを一言にて出す様な気持で発音させると容易に出来る。
 当地のシ、ス、セは訛音である。
 シはシ、スの中間音である。シの正音は舌頭にて下の齦を圧さぬ様にし、イ言を出す様にさせるとよろしい。拗音シャ、シュ、ショの発音から導いて行くと容易い。
 スはシ、スの中間音である。サ、セ、ソの発音から導くとよい。
 訛音セはシェの如く発音する。サ、ス、ソの発音から導くとよい。
 訛音チはチ、ツの中間音である。チャ、チュ、チョから導くとよい。
 訛音ハ、ヒ、ヘは唇音なれば唇を用ひず、口を開き、呼気を圧し、ア、イ、エを発する様に導く。
 困難を唱へられるものに鼻音矯正がある。之なども早期に処置すれば、それほど困難ではない。(因に鼻音と言っても主に通鼻音である。)読本に就いて言へば、入学後間もなく、『スズメガヰマス』に出会ふ。自分の経験では、此のスズメの例で通鼻音の矯正を一学級、一時間で殆ど為し得る様である。それには、鼻音と然らざる音との区別を明瞭に聴覚に訴へ、なほ不明なる場合は、各自指端で鼻をつまませて発音させ、鼻音にすべからざる部分の音を覚らせる。困難する者には、幾多の、類音を示す。スズ(鈴)、ミズ(水)、マド(窓)等。勿論鼻濁音の徹底的矯正は、凡ゆる機会を利用して継続して行かねばその効果を挙げることが出来ない。
 又此の地方に極めて多い、清音なるべき処に濁音を発する習癖も極力矯正すべきであるけれ共此の場合には、倒置法の訛音は決して鼻濁音を示さないことに留意すべきである。言ひ換えれば、濁るべからざる音を濁る場合には決して鼻濁音とならない。例へばミヂ(道)、アダマ(頭)、クズ(靴)、ツグエ(机)等の如くである。之は先に述べた濁るべき音の場合に悉く鼻濁音となるのとよい対照をなして居る。(例、スンズメ(雀)、スンズ(鈴)、ミンヅ(水)等)

 このように、遠藤熊吉の発音指導は、アイデアにみちて具体的である。教えは子どもに肉体を通じて指導するのが特徴である。
 教え子が、「ウ」を「唇音」(ママ)にしないために喉から発声させようとして、彼は終始「のんどでクウ」と言い続けていた。彼のニックネームが「のんどでクウ」となってしまった。
 「エ」の発音を正すために遠藤は、口に親指を入れ、「イ」の発音のために箸で生徒の歯ぐきを押した。
 彼がポケットに小石を入れておいて、生徒にそれを示し、「イシ」という発音をさせた話は有名である。
 傍線の部分だけを遠藤はくりかえし練習させた。
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