標準語村の生成と展開
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北条常久(秋田市立中央図書館長)
5.吉乃鉱山

 大正時代になると、第一次世界大戦が勃発、鉱業界は好景気を迎え、西成瀬の吉野鉱山は繁栄した。吉野鉱山は吉乃鉱山と名を改め、資本金も増額し、選鉱所と精錬所を設置し、発電所も建設した。『増田町史』によれば大正7年には鉱山関係者だけで6,079人が居住していた(北条常久(1996)『国語教育の実際と表現』翰林書房参照)。
 すると、当然のことながら、西成瀬村も流動人口が増加し、言葉も一様でなくなって行く。会話の重要性は、ますます認められていく。しかも、村の経済も鉱山への依存度を高めていく。
吉乃鉱山 選鉱場
吉乃鉱山 選鉱場
吉乃鉱山 手撰帯
吉乃鉱山 手撰帯
 西成瀬小学校の教員(昭和24年〜34年)で小説『吉乃鉱山物語』(自費出版、平成12年7月)の作者高橋定市は、小学校の鉱山への依存を次のごとく実感した。

赴任して一番驚かされたのは、学校にある設備・備品の中で目ぼしいものは、ほとんど鉱山からの寄付によったものであったことである。ピアノやオルガンは言うに及ばず、理科室の棚にある実験器具や職員室にぶら下がっている二メートル近くもある振子時計に至るまで、鉱山の寄付によったものだった。(『吉乃鉱山物語』の「後記」)
『吉乃鉱山物語』

 西成瀬小学校の卒業生は次のように語る。

当時村の子どもの服装は、股引きに前掛け、帯をして風呂敷包みをさげ、下駄か草履であった。それに対し鉱山の子は金ボタンにカバン、靴をはいていた。食物も村では家の中で飼う牛、馬の肉は決して食べないが、鉱山の人々はこれらを常食としていた。彼等は少年少女向きの月刊雑誌を持っていた。彼等はすべて憧れで、彼等の使う標準語も憧れであった。(佐藤順治、昭和4年卒)

 児童文集『北方文選』(昭和5年7月17日号)に次のような作文がある。

  病気のこと       西成瀬村尋三  小林国男
僕は病気になつてから二十八日もご飯をたべないのでなほつてもなかなか学校へ来られませんでした。学校では先生も友だちもしんぱいしてゐたとねいさんから聞いてありがたく思ひました。僕が病院にいつてかへる時鶴治君のおかあさんにあつたら「ぼつちやんが病気だそうですがなほりましたか」とおかあさんにいつてゐました。家にかえつてからおかあさんがみんなしんぱいしているとよろこんでゐました。

 この作文の書き手小林国男は鉱山の子で途中から転校していった。鶴治は、佐藤鶴治(昭和8年卒)で地元の子であるから、鶴治の母は村民でありながら、相手が鉱山の人のため「ぼつちやん」と呼びかけたのだろう。鉱山の進出によりことばは大きな影響を受けていた。
 この作文が書かれた昭和5年は冷害による大凶作で、鉱山への依存度は高かったに違いない。
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