西成瀬は横手盆地の東南に位置し、奥羽本線十文字駅から東方6kmにある。栗駒山系を源とする成瀬川を挟んで両側に集落が点在する小さな山間の里である。西に秋田富士(鳥海山)、東に奥羽山脈を臨み、春夏秋冬風光明媚な地である。
明治22年、町村制の実施に伴い西成瀬村が成立したが、昭和30年に増田町と合併して新生増田町となり、平成17年10月には横手市と平鹿郡7町村が合併して新生横手市となり、現在に至っている。史実のうえで村の起源は明かではないが、洪積大地や河岸段丘の随所から縄文・弥生時代の遺物が多く出土し、先人の暮らしの足跡がうかがわれる。
近年は、水田、畑(養蚕、葉たばこ)、果樹(りんご)、林業と狭い耕地を効率的に利用した農林業が基幹産業であったが、社会情勢の変化に伴い、兼業農家が増加の一途をたどっている。
かつて、当地内(吉野)には吉乃鉱山(享保5(1719)年から昭和32(1957)年まで操業)があった。特に、大正4年に有望な鉱床が発見され、大日本工業(株)として鉱業所が建設されてからは、広範な地域から労働者が集まり、集落が形成され、一寒村がたちまちにして都市的景観を示すようになった。
これによって、地域の経済現象や生活文化に大きな影響が生じた。しかし、鉱山の盛衰は実に激しく、西成瀬の受けた影響も急激な変遷を伴うものであった。
西成瀬にとって、さらに特筆すべきは、当地(安養寺)が生んだ遠藤熊吉(言語教育者)が、明治30年代から生涯をかけ、母校西成瀬小学校で独自の言語教育を実践されたことである。きびしい社会情勢にもかかわらず、東北の片田舎で、先見の明をもって行われた「ことば教育」の成果が実り、西成瀬は「標準語村」と呼ばれるまでに至った。