標準語村の生成と展開
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
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北条常久(秋田市立中央図書館長)
2.指導者遠藤熊吉

 以上のような標準語村を指導したのは、村出身の国語教師遠藤熊吉(明治7.3.1〜昭和27.8.21)であった。
 その遠藤熊吉について長男倫太郎(日本画家)から御教示いただいた。以下は彼が記述してくれた文章である。
遠藤熊吉(中央)と息子・倫太郎(左)、孝次郎(右)
 
上京の父
戦前西成瀬村(14部落)に小学校が無いので、父は隣の増田町小学校に入学します。丁度その時東京より女教師が来ました。その言葉の美しいのに一驚し、学友(後東京で開業医師)と共にアイウエオなどの発音の勉強をします。
父は美しい言葉の東京に意を決して上京します。秋田県には東京行の汽車がないので隣県の黒沢尻から上京します。黒沢尻迄は馬に乗って、上京して早速國學院大学の前身に入学します。当時主任教授は隣県の御出身故ひどいズーズー弁で、インドウクンチミのナマリのネエのはドシテなど聞きしにまさる落合直文先生の弁には今更乍ら驚きました。父は後年手ぶり身ぶりで先生の弁のまねをして見せ、相互に笑ったものでした。時の文部大臣は森有礼先生で、日本語を止めて英語にしてしまえと迄豪語した由で、父等は国学鼓吹の歌を造って、世の風潮に反撃したそうです。当時小学校も英語の勉強があったそうで、父は当時を思い出し、その発音をして見せました。その正確さは今の中学生など遠く及ばぬと思ったものでした。
父は国学は文法上からも世界に冠たるもので英語などは遠く及ばぬものと当時思ったそうです。私共の前で英語などは日本語に及ばぬと例を引いて言っておりましたが、私共が子供なのでよくわからずじまいでした。
父は遠い私共祖先の行蹟を心に思っていたと思います。私共の祖先の行蹟は次の通りですから。
約五〇〇年前工藤源十郎祐政が京都にあって当時有名だった蓮如上人からナムアミダブツの教を受け武士を捨て、一属を引きつれて奥羽山脈を越え、成瀬川の上流狙半内(成瀬川の上流)の地に止まり、後成瀬川の下流で皆瀬川と合流の地「増田郷」に一寺「通覚」寺を建立して以来今日迄二十代分家の私共私で二十代、父の国学専心の一端はこの祖先の行蹟の因縁を引きついで一文の徳も、ならぬ国学鼓吹に専念するにいたったものと私は思います。
幸な事に私の家は当時西成瀬一の多額納税者で日々の収入を教育事業から得る必要もなく専心の向く儘教育に専念得たものと私は思っております。

 この学歴の中、國學院大学の前身は間違いで、彼が学んだのは大八洲学校(おおやしまがっこう)という古学の復興を期す大八洲学会の教育機関であった。大八洲学校と國學院大学は教授陣が重複していたのでこのような誤りが生じたのだろう。
 遠藤熊吉は、高等科を卒業する頃になると、国語、国文を本格的に勉強してみたいと思うようになる。だからといって、それを勉強して教員になろうとか、文学者になろうとかいう目的や野心のあってのことではない。ただ日本古来の言葉を知り、古典文学を読み、国学の道を歩みたいと思うだけのことであった。それには田舎にいては、学ぶ場もないし師もいない。熊吉は、小地主の長男として家を守り、西成瀬村の安養寺という集落だけで生きていくことに何の不満も感じてはいなかった。しかし、国学の基礎だけでも若いうちに学び、なんとか学びの入口に立ちたいと思った。
 大八洲学校は、授業は午前3時半ないし4時から2、3時間の私塾で、教育内容は古学の復興を期す、古事記、日本書紀、万葉集、皇室典範などであった。校長の国文学者木村正辞は後に帝国大学文科大学教授に就任した万葉学者。さらに著名な国文学者落合直文もこの学校の教授であった。彼は叙事詩集『孝女白菊の歌』(明治21年)、『騎馬旅行』(明治26年)を刊行した詩人であり、森鴎外等と結んで訳詩集『おもかげ』を出版した翻訳家でもあった。その他の教授には東京女高師教授にもなった歌人で国文学者本居豊頴もいた。大八洲学校は当代有数な文学者を揃えていた。遠藤熊吉はここで心ゆくまで古典文学を学んだ。
 大八洲学校と隣接してもう一つの国語伝習所という学校があった。それは、教育事業家であった杉浦鋼太郎が、大八洲学校の落合直文を初め著名な教授陣を講師にして文部省の各種検定試験合格のために開校した施設であった。当時は小学校教員資格に検定制の道があり、その資格試験に合格するために、日曜日だけ開講していたこの国語伝習所に学ぶ人は多かった。
 熊吉は大八洲学校で学習するとともにこの国語伝習所でも学んだ。それを裏付ける写真が遠藤熊吉家に残っている。大八洲学校(明治28年3月のサインがある)と国語伝習所の2枚の卒業写真である。遠藤は大八洲学校と国語伝習所の両方に映っている。


大八洲学校の卒業写真(遠藤博通氏提供)

上掲の写真の裏面。
「明治28年3月大八洲学校卒業記念」とある。杉浦鋼太郎、落合直文、本居豊頴の名も見える。


国語伝習所の卒業写真(遠藤博通氏提供)

 遠藤熊吉はこの東京遊学で、希望通り、十分に日本古典文学を学んだ。そして、その学習は帰郷後も長く続いたことは彼の蔵書目録を見れば良く分かる。
 日本古典文学研究に必要な辞典、上田万年・松井簡治『大日本国語辞典』全五巻(冨山房・金港堂)、大槻文彦『大言海』全四巻(冨山房)、『大辞典』全26巻(平凡社)を揃え、万葉集、古事記等の古典が完備している。田舎の小学校教員には不釣り合いな書籍群である。
 遠藤熊吉は日本古典を学んだが、次の二点をも実感した。
 それは、国語伝習所での江戸子達との会話であった。増田小学校時代学習した発音練習でどうにか下町子との会話が可能であった。高等小学校卒業までの秋田の田舎で方言で生活しながらも、少しの学習で東京で会話ができるということ。

遠藤熊吉蔵書
 またいくら学識が豊かでも落合直文のようなズーズー弁では生活にさしつかえる。直文は遠藤の反面教師であった。

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