標準語村の生成と展開
遠藤熊吉翁 西成瀬 西成瀬小学校の歩み
西成瀬の話しことば教育 ことば調査報告
トップページ
資料 リンク サイト案内
北条常久(秋田市立中央図書館長)
8.遠藤熊吉の没後の標準語村

 遠藤熊吉の没後、昭和29年7月『実践国語』が、「標準語教育の問題」を特集した。
 それは方言の地、東北の秋田から近藤国一、九州の鹿児島から蓑手重則が質問者になり、それに対し、研究者が15名、実践家が12名で、その質問に答える形をとっている。
「標準語教育の問題」表紙 「標準語教育の問題」質問書
「標準語教育の問題」目次

 解答者は、目次のごとく、当代の国語学者を網羅していて、この企画は評判になるとともに、後に標準語論争と命名され国語教育史に大きく位置づけられた。
 この論争には前段があった。方言学者東条操は随所で、日本には正真な標準語がなく、東京語が標準語だとしているが、東京語も方言にすぎず、東京語をもって標準語教育とするのは誤りだと述べていた。さらに彼は方言は生活語として十分機能しているから、我々の母語である方言を排斥せず、標準語と方言を併用すべきであるという。
 それに対し、近藤は学習指導要領で、国語の使い方にはきまりがあると断定しているのに、標準になるものがないというのでは、教育現場では自信をもって国語の指導ができないと現場の声を代弁した。彼は、標準語は国民全体の意識によって決定されるもので、東京語は現在立派に通用しているのだから、標準語であると主張した。
 さらに二人の論争は標準語開始の時期でもかみ合わない。
 東条は「第1学年では標準語はいわば軽く触れさせる程度でよく、標準語の使用を強制してはならない。本格的な標準語教育の着手は、標準語に見慣れ聞き慣れた第3学年ごろが適当かと思う」と主張をし、近藤が「標準語教育は入学と同時に適切な教育課程で系統的に指導すべきものである」と反論した。
 近藤は遠藤熊吉を例にとり、小学校入学時から標準語教育を始めるべきだと論陣を張った。
 遠藤の標準語教育はますます全国的に注目されることになった。
 近藤国一をリーダーとした秋田県国語研究会と秋田標準語教育委員会は、『ことばの本』(昭和28・5)という標準語教育のテキストを発行し、標準語教育を全県的に普及させた。
 そのテキストは、改訂を加え、完成度の高いものとなっていったが、いくつかの用例で正しい発音やことばのきまりを学ぶようになっているので、体系化という点で不満が残り、指導者の力量によって教育効果に差が出るものとなった。
 たとえば、『ことばの本』の(一)「げんきなへんじ」では、「あきおさん」、「はい」。「よしこさん」、「はい」。「いちろうさん」、「はい」。という例文と。「いぬ」、「いと」。「いぬ」、「いんき」という練習文を示して、「い」の発音を学ばせるのであるが、その用例と練習例が体系的に示されていないうらみがある。
 それは西成瀬小学校には切実な問題であった。
ことばの本
 「標準語村」とか「ことばの学校」とかと評判になると、全国各地から、研究者や教師、そして報道陣がかけつけた。
 しかし、遠藤熊吉の死後、彼の標準語教育は確実に伝承されなかった。遠藤熊吉は、論文や実戦レポートを発表することはなかった。遠藤の『言語教育の理論及び実際』が出版されるのも昭和44年になってのことである。教員移動もあり、遠藤熊吉の薫陶を受けた教員が西成瀬小学校を去り、学校にはことばに関心のない教員も増えて行く。
 後に、遠藤熊吉と西成瀬小学校の標準語教育についての数々の報告書を書いて、同校の話しことば教育のリーダーになる駒木勝一(昭和30年から41年勤務)は、次のごとく語る。

昭和三十一年ころの私たちは、かつての遠藤翁の話を漫然とは知っていましたし、本校の話しコトバ指導の特徴は発音指導にあるらしいという位のところは気づいていました。けれども、この学校が単なる発音矯正としてのみ捉えることは誤りではないかと考えてみましたが、それを知る資料も方法もすぐには見つかりませんでした。(「ことばの教育――秋田県平鹿郡増田町立西成瀬小学校」)

 残された西成瀬小学校の教員達は遠藤熊吉の言語教育理論を再構築しようとした。
 彼等は旧教員や卒業生から遠藤の指導法を聞きとり、昭和33年、報告書を作った。そして、その一部を近藤とともに遠藤の授業を参観した上甲幹一に送った。
 すると、翌年10月3日、彼は西成瀬小学校を訪問し、教員達を指導するとともに、協力を約束して帰京した。
 上甲は、その指導の任を同じ国立国語研究所の上村幸雄に委ねた。上村は教育科学研究会(通称教科研)国語部会の一員であったので、同会に協力を求めた。
 同会は、当時の文部省学習指導要領による言語活動経験によって言語能力を伸ばすという立場と違い、体系的な言語指導の確立を目指していた。それが、遠藤の教育理論を再構築しようとした西成瀬小学校の教員達の考えと一致した。
にっぽんご5 発音とローマ字  教科研国語部会はその事業として、「にっぽんご」シリーズ、発音、文法、かな、漢字と各分野のテキストを刊行したが、西成瀬小学校の教員達は仲間を集め、教科研・秋田国語部会を組織し、そのシリーズの一つとして「にっぽんご5 ――発音とローマ字」を出版した。
 そのテキストに付録「にっぽんご5 ――発音とローマ字」の指導ノートの「まえがき」には次のごとくある。

私たち教育科学研究会・秋田国語部会の教師は「にっぽんご」シリーズの1冊であるこの本を、明星学園・国語部と教育科学研究会・東京国語部会の研究者の協力をえて、いまようやくつくりおえることができた。
秋田のうんだ音声教育の先駆者である遠藤熊吉翁の遺産をひきついで子どもたちを完全な標準語の所有者にそだてるためには、日本語の音声についての体系的な教科書がどうしても必要なことを、わたしたちは痛感し、このしごとにとりかかった。そして、たくさんの人びとの協力によってはげまされ、おしえられて、二年あまりかかって、ようやく教科書のかたちにまとめあげることができた。
 
 「にっぽんご5」は、1発音、2文・単語・音節、3単音、4母音、5はねる音、6はれつ音(1)、7はれつ音(2)、8はじき音、9まさつ音(1)、10はれつ・まさつ音、11鼻音、12まさつ音(2)、13子音のまとめ、14半母音、15音節のまとめ、16ねじれた音節、17なが母音、18つまる音、19はねる音(2)、20とくべつな音節、21母音のよわまり、22アクセント、23東北方言の音声、24ローマ字(1)、25ローマ字(2)、26ローマ字(3)と続き、27kousi no namasi例文で終わる。

 ここに遠藤熊吉の標準語教育は二つの違う立場から継承されることになる。
 また遠藤熊吉は、昭和36年には石森延男著『小学新国語・五年下』(教科書。光村図書)に紹介され、さらに昭和44年には遠藤熊吉著『言語教育の理論及び実際』が刊行され、彼の名は広く世に喧伝されるにいたった。
 しかし旧西成瀬村と西成瀬小学校に脈々と受け継がれている標準語教育は、秋田県国語研究会・秋田標準語教育委員会編『ことばの本』とも教科研・秋田国語部会とも少しニュアンスが違う。
 それは歴代の西成瀬小学校の教員と卒業生が必死にその伝統を守り続けて来たものである。
『小学新国語・五年下』
『小学新国語・五年下』
 ある時期は、ことば先生という生徒のリーダーを養成し、ある時にはゆとりの時間を1年生から6年生までの発音練習に当て、ある年には総合の時間に遠藤熊吉を調べた。長岩以久子(昭和54年から10年勤務)は、遠藤熊吉の精神を教科研のメカニズムで生かした。
 私達研究者もそれに続き今回遅まきながら遠藤熊吉の標準語教育を明らかにしようとした。その成果の一端を次に示したい。

 ズーズー弁の秋田県も現在は標準語である。今さら標準語教育でもないだろうという発言をよく耳にする。
 しかし、そうだろうか。
 他人の話を聞けなくない生徒がたくさんいる。遠藤熊吉の聴方授業こそ今やまさに必要ではないだろうか。
 人と人の会話がなくなっているという。他者と顔を見合わせる対話こそ携帯電話の時代にぜひ必要なのではないのか。
 現代の生徒は自己主張ができないという。西成瀬小学校の卒業生に多く学びたいものである。
 日本語がやせて行く。方言の良さを再認識したい。方言を学ぶことは国語を浄化すという態度を学びたいものである。
 私達は遠藤熊吉の標準語教育に多くを学びたいものである。
北条 常久(ほうじょう つねひさ)
 秋田市立中央図書館明徳館館長。日本近代文学、国語教育学を専攻。本研究グループの代表者。20年以上にわたって、遠藤熊吉と西成瀬のことば教育を追究し続け、今回、その集大成の研究事業に取り組む。2006年7月に、これまでの研究成果をまとめた『標準語の村 遠藤熊吉と秋田西成瀬小学校』(無明舎出版)を刊行。
<< 前のページ