旧教員へのインタビュー(3)
語り手:
小原周三氏 (以下、小原)
S.30〜41在職
内藤繁生氏 (以下、内藤)
S.33〜43在職
聞き手:
菊地 悟 (以下、菊地)
音声(抜粋)再生
文字化部分へ
菊地:
今回の調査は、遠藤熊吉先生の築いた西成瀬小学校のことば教育、それを熊吉先生がいらっしゃらなくなった後に、実際先生方がどのように指導なさったかを、思い出話の中で伺って、それでなんとか再現して行こうと言うことを目的としておりまして、いろいろ教えていただきたいと思っております。まず、小原先生が西成瀬小学校にいらっしゃったのは、こちらの名簿のとおり。
小原:
ええ、間違いありません。30年。
菊地:
ああ、30年。ええと。
小原:
4月5日です。
菊地:
ああ、4月5日ですか。その時、赴任する前はどちらの方にいらっしゃったんでしょうか。
小原:
ええ、前任校はですね。雄勝郡皆瀬村立岩小学校落合分校です。
菊地:
はい、ありがとうございます。それから内藤先生も、ここに書いてあるようなことでよろしいでしょうか。
内藤:
はい。
菊地:
33年から43年までいらっしゃった、と。
内藤:
43年の3月まで。
菊地:
前任校は。
内藤:
前任校は、亀田小学校。
菊地:
ああ、お隣ですね。……次に、赴任前に西成瀬小学校についてどんな学校だと噂で聞いていらっしゃったか、ということなんですが。小原先生、どうだったでしょうか。
小原:
噂というよりも、あのね、ここにあります、今日お邪魔しています佐藤カツ先生と、いう先生と、うちの姉です、小原栄子といいますけども、が、こちらでお世話になったんですよ。お世話っていうのは、教師として。
菊地:
先生を。
小原:
で、それ私の姉ですので、転任が決まったときに、姉に次のように話されました。「西成瀬小学校に転任が決まったそうだけれども、生半可な考えで赴任などはしないほうがいいですよ。」と、いうふうに釘を刺されました。で、そのあと私が「その生半可な考えで、という意味は、どういう意味なのですか」って聞いたんです。そしたら「あそこの学校は言語教育の立派な学校ですので、話すにも行動にも、責任を持ってしっかりした考えで行かなければならないよ、ということだ」ということを話されました。ですから、赴任のときは、どこまで意を決して来たかちょっと、不安ばかりでしたけれども、そういうふうに直接姉に言われて。
菊地:
そうですか。お姉さんはその前にもう移られていたんですか。西成瀬からは。
小原:
そうです、そうです。
菊地:
入れ替わりでは。
小原:
ないんです。相当時間があります。
菊地:
内藤先生はどうでしょうか。赴任される前、亀田小学校にいたころ、西成瀬小学校の評判。
内藤:
うん、まあ、しょっちゅう西成瀬小に行ったりしていたので、ぼわんと、ああ、こういう学校なんだなということはわかっていました。
菊地:
「こういう学校」の方を、具体的に言いますと。
内藤:
(笑)「ことばの学校」だっていう。(笑)
菊地:
……実際に赴任してみて、そしたらどういう学校だったでしょうか。まず子供たちがどうか、という面から教えてください。じゃあ、内藤先生。
内藤:
やっぱりあの、想像していたとおりで、やっぱりあの、言葉がきれいだという印象を受けました。
菊地:
これは、亀田小学校の子供たちと比べて?
内藤:
ええ。(笑)
菊地:
それは言葉遣いでしょうか。それとも、乱暴な言葉遣いではないということでしょうか。それとも、発音。
内藤:
両方ですね。
菊地:
あ、両方ですか。……小原先生はその、お姉さんから聞いたのとか、実際来てみて子供たちがどうだったでしょうか。
小原:
校舎はね、校舎はあれですよ、非常に古い校舎だったんです(笑)それに比べますと……それに比べるんじゃなくて、非常にあの、校舎が明るいと、いうことと、校舎が明るく整頓されている学校ということ、そして校舎に入って子供たちの様子なんですが、非常に子供たちの生活が明るい生活をしているということ、が印象にあります。それから、まだ新任式などはやっておりませんので、職員室におって廊下で話す子供たちの生活のことばを聞いていたんですけれども、非常にやっぱり、明るくですね、非常にあのこう……ちょっとイがあれですけれども、非常に結局きれいなことばを使っているということですね。で、具体的には、そのきれいだということは、非常にあのこう、はっきりした言葉遣い、そういう言葉遣いを聞いておりながら、その子供たちのその……様子がふうっと浮かぶような、感じをして、とってもあの。
菊地:
いきいきとした言葉なんですね。
小原:
そういうあの、印象があります。
菊地:
前任の落合分校とは、かなり違いますか。
小原:
それはね。とにかく落合分校っていう学校は(笑)っていうか分校には複複式学級でしたから。
菊地:
複複式と。え、何学年?
小原:
3学年。1、2年、3年が一人の先生。4、5、6年が私と。そういう学校、分校だったんです。
菊地:
じゃあ人数がぜんぜん違いますね。
小原:
人数はもちろん違いますし、生活の場所、それから環境その他が全然違いますから。今私が特別改まった言葉を使っているわけじゃないんですけども、こういうふうな話し方で話ししますと「先生、わからねえ。何言ってんだかさっぱりわからねえ」。だからあの、授業中であっても私はその地域の方言なんてのはあまりわかりませんから(笑)一応教師という名をもらって教壇に立った時には、国語の教科書に書かれている文をもとにした、そういう基本的な日本語で話さなきゃならないだろうし、生活していかなきゃならないだろうというふうな気持ちでおったのですが、子供たちに「わからねえ。先生、何言ってんだかさっぱりわからねえ。こっちのことば使えでや」なんてね、そういう地域でしたから、もうまるっきり違う(笑)
菊地:
そうするとこちらでは、そういう言葉遣いでも全然文句を言われないと。
小原:
うん、それでもね、ありましたよ。やっぱりあの、「いや先生、発音違う」とか「アクセント違う」とかね、というようなこと。これはあの、教育の中で出てくることなんですけども。そういう子供たちのすばらしい聞き分けっていいますか、聞く力、そして自分たちの身に付いた事で私の話を聞くとか、というような、態勢っていいますかね、きちんとした態度がありました。
菊地:
そのころはもう吉乃鉱山の方はかなり縮小していて、あんまり共通語を持つ、東京から来た子とかはあんまりいなかったんでしょうか。
小原:
私たちがいたころですか。そのころはね。
内藤:
まだ、あったよ。先生いたとき、まだあった。
小原:
32、3年ころまでかな……3、4年ころかな。
内藤:
私が行った年に閉山になったようです。
小原:
非常にあのこう……私がおった30年から32、33、34年ころは、閉山になる前は、非常に転校生が、もう。
菊地:
どんどん出て行くんですか。
小原:
とにかくね、1学期に1クラス程度ぐらいですよ。数えてみれば。
菊地:
じゃあ、どんどん人数が減っていっちゃったけども。
小原:
それと、じゃあ他から転入してくるかっていうと、そうではなかったんです。だから学校の生徒数がどんどんこう減っていって、何て言うんでしょう、小規模になったというかね、そういう時代でした。私がおった時、おったっていうか、最後までじゃないんですけども。
菊地:
子供たちはそういう状態だということでしたが、お父さんお母さん、保護者のほうからは何かことば教育とかなんかに限らずですね、何かこういうことをやってほしいとかいう要望はありましたでしょうか。他とは違う、というような。
内藤:
それは特別なかったのじゃあないかな。
菊地:
保護者からは特別に無いと。じゃあ地域全体からは。何か西成瀬小学校はこうあってほしいというような。
小原:
うーんとあの、特別にね、何て言う……改まって要望という形ではないんですけれども。非常にあの、なんってすか、ほれ、学校が小規模になって、ね、こう日に日になってくるわけでしょ。今日はこっちの子供が転校した、ね、こちらのクラスのだれそれ君が転校した、ってことも、学級報とか校報とかね、使ってね、連絡取り合っていましたから、それで非常にそういう点では小規模校になってきたということの、何て言う……不安ではないんだけれども、そんなふうになってきたんだけれども、今まで以上にね、頑張りでもって、伝統の灯を消すことの無いように、子供たちに指導してほしいなという意味合いのね、ことは、家庭訪問だとかPTAだとか何かというときには、私は感じました。直接無理なね、無理なっていうか、こういう、そんなことを気付かされましたね。
菊地:
……それで、今度はいよいよ西成瀬の話し言葉教育なんですけれども、どんな特徴がありましたでしょうか。
内藤:
特徴ねえ。
菊地:
たとえば、こんな教材を使うとか、こんな指導法を取るとか。時間割でことばの時間を組むとか。年間カリキュラムで工夫するとか。あるいは教師の指導体制とか。
内藤:
特別に無かったんでないか。
小原:
ずいぶんこうねえ、今、先生お話しされたようにね、系統立ててぐうっとこう、今お話しされたんですが、それに対してね、それはそのことについてはこうでした、ああでしたっていうことはね、今、ちょと内藤先生お話ししたようにね、特別こう取り立ててね、どういう……先生にしてみれば「変じゃないの」、年間のね、教育目標があって、その具体化がどういうふうなんてのがね(笑)普通なんでしょうけど。だからそこいら辺がね、私は特徴だと思ってんです。
菊地:
特に重点をこういう単元にとかっていうんじゃなくて。要するに、常に。
小原:
そうなんです。それがね。それが特徴だと私は思ってます。
内藤:
(笑)うん。
菊地:
ああ、「常に」ってのが最大の特徴と。
内藤:
うん。
小原:
とにかくその、まず学校生活すべてっていいますとね、大げさですけども。結局、指導する私たちは、一旦まず子供が校門をくぐったら、そして校門を出るまでの間、ね。
菊地:
その間は全部。
小原:
全部。
菊地:
指導の時間であると。
小原:
場です。時間というよりも、場である。だから、互いに、先生方はもちろん、それから子供たちもそういう意識、考えでもって、生活全体を明るく、そして一日を生活して帰りましょうっていう……何か私はそんなね、まあ改めて特徴というふうに聞かれますと、そういう気がするんです。ええ。ただけっしてね、ここの学校に赴任した先生がそういう伝統校であるからということで、何て言う、こう……改めてこういう勉強もしなきゃいけない、こういうふうなことも、なんていうことで苦しむということは。
菊地:
なかった?
小原:
なかったというとゼロになるんですが、そういうことじゃないんですけども、だからさっき話したように、生活全般の中でという、それが私は特徴というふうに聞かれると、一点挙げられます。それから私、この西成瀬小学校はことばの学校だ、ことばの学校だと言われているんだけれども、だからこれは駄目、このことばは駄目、こうでなきゃ駄目だというような、何て言う……禁止したりなんかりする、そういう指導ではなかったというふうに……子供たちにね、聞くことね、読むことね、それから話すことね、この三つを大事にして、その場その場で子供たちに意識を教えるっていうかね、そして意識を高めていくっという指導であったように。今この、それが特徴でなかったかなと。まだまだあると思うんですけども。
内藤:
学校に、1年生に入ってくる子供たちは「学校に行ったらほんとにいいことばを使わなきゃいけないんだよ」というふうに家庭でも言われてくるんですから。もう、学校に来たら共通語を使わなきゃいけないっていうふうには思ってるんです。だから私たちも割と、指導が楽だったって(笑)友達同士でもやっぱり、高学年の子供が低学年の子供に共通語でこう話しかけるもんだから、それで小さい子も「ああ、そういうふうに言わなきゃいけないんだな」っていうふうに、自然とこう、そういうふうな雰囲気になってしまうという、そういうことだったんじゃないかなと思います。
菊地:
もうすでにそういう伝統が地域の中にできあがって。
内藤:
そう。
菊地:
それはやっぱり亀田とはかなり違うんですか。
内藤:
ああ、違いますね、そりゃ。
菊地:
昨日あたり、それこそ遠藤熊吉先生に習った人たちのことを聞きましたら、たとえば登下校のときでも集団で歩いていると、遠藤先生が通り掛かると必ず一人が、誰かが当てられて、ポケットから石を出されて「これは何だ」と言うっていうんで、みんな目を伏せていたとか、そういうお話がありましたけども、それこそ何か遠藤先生は、校門を出ても何かやってたみたいですけど、そういうことはもう特にやらないわけですね、もう。一応、校門出るところまで。
小原:
わかりました、わかりました。あのね(笑)あの、「後知らん」って意味じゃないんですよ、ね。校門ね、その外は知らんよって、そういう意味ではないんです。ということは結局、具体的には先生が今お話あったように、遠藤先生がね、道路歩いている子供たちにもそういう指導をされておったということは耳にしてあります。だからといって私たちがそれをね、ああ、それをじゃない、そういうこと、を受け継いでうんという、とこまでは行かないんですけども、あの、子供たちの日常の生活反省ってうのがあるんですよ。クラスで。朝の会とか帰りの会とかという会があるわけです。その中で特別ね、ことばについて反省という項目は設けてありません。が、出るんです、子供たちから。
菊地:
ああ、自然と。ことばについての。
小原:
ええ、反省が。たとえば、昨日の帰りに、ね、個人名も出るときあるんです、だれそれさんがこんなことを言って私たちを冷やかしたとかね、ここらへんでは「やすめた」と言うんですけどね、すると、その冷やかしたことばがちょっと問題になる。そういうことをもとにして、ああそうするとそういう学校帰りのね、道中でね、そんなことがあったんだ、という、生活をね、私たちが把握することもできるし、それからそういう子供たちの生活の中には、そんな乱暴なことばを使ったり、なんかりしている生活があるんだなということを把握して、そのときには、あの何て言う、悪いことばだとかじゃなくて、間違ったことば遣いで、ね、というようなことで、こちらで受けて、そしてお話しをしてやったり、全体にですね、そういうようなことは、してありましたから。
菊地:
まあ、ちょっと遠藤先生もやりすぎじゃないか、変わった方だという気はしますんで。
小原:
(笑)それだけの信念を持ってねえ、あの、頑張ってくれた先生だと思います。
菊地:
そのほかですね、特にこれといって遠藤熊吉先生がやっていたことを何か受け継いだというような、まあ具体的なものでなくても、精神とかそういうものでもいいんですけども。何か、受け継いでるものがありましたでしょうか。……これは遠藤先生のころからやっていることだとか、そういうような。……まあ、あまり具体的にそんな、これはこれだからやらなきゃいけないとか、そういうような堅苦しいものでもなかったんですね。
内藤:
そうですね。
小原:
ええ、ええ。
菊地:
自然と、生活の中でという感じで、はい。……ではちょっとですね、あちらに足をお運びください。
――当時の研究記録等の資料を見ていただく。その中でご自分たちの携わったものもご指摘していただく。
小原:
さっきその、応接室でね、ざんだんの時に[教え子たちと]久しぶりだと話ししておったときに、今それに関係すると思うんですけど、とにかく、しょっちゅうね、先生方の話し合い、研究会とかね、それから他校からのね、視察、指導主事の先生の訪問、それにNHKからの取材、なんていうのが毎日のようにありましたねっていうふうに言われたんですよ、さっきね。ああ、それは覚えてますよ。だからさっき、それであそこで[資料を]見たときに、改めて、あっ、そう、あの時はもう、とにかく、まず、しょっちゅうというとあれですが、そういう点ではその、他校からの視察なり、指導主事の先生の訪問なり、実際校内の授業研究会なりね、なんかりでもって、話し合いをしたりなんかりしたことは、それはもう(笑)
菊地:
それは赴任当時よりも、なんかそのころ急速に。
小原:
いや、急速にぐーんと高まったという……のではない。
内藤:
だんだん高まって(笑)
小原:
それは、質がこう高まっていったというねえ。
内藤:
そうそう。
小原:
それはあります。そういうことが急に的にね、ぐーんと多くなったということじゃなくて。
菊地:
徐々に徐々に。積み重ねが。
小原:
積み重ねで、そしてその、私なんかはほら、あまりあれだったんですが、あまりはっきりしなかったことが、そういう研究会なり、他校の先生方の視察なり、指導主事の先生方のというようなね、それからあそこに書かれてあんのかなあ、NHKの取材のね、ときに、特に私、話されたのは、授業を見ていただいたんですが、その中でその、私が特に指摘されたのは、先生のその鼻濁音がね、ちょっと、何ていうかな、くせがあるっていうかな、なんかそういうことでってことで、あの、そう、ちょうどこのへんかな。校舎がここが体育館のほうでしたから、向こうの校舎のほうに、当直室っていう部屋があったんですよ。そこにアナウンスの方と、取材に来た方といる中に私が入って行ってね、そしてその、ある一文を読んだり、それからこういうふうにして対話にこう話したりなんかりしてる中で、「そこなんです」っていうふうにね、指導を受けたことがあるんですよ。そういうこともありました。
菊地:
指導したのはどなたですか。
小原:
あれは当時のアナウンサーかな。
菊地:
NHKの方ですか。
小原:
どちらかの先生ってことでなくてね。そういうのは私思い出します。
菊地:
ああ、そうですか。やっぱりそういった、先生方自身のことばに対する研修とかもあったんでしょうか。……それはたまたまNHKの人がそういうことを言ったぐらいで?
小原:
私がさっき話したのは、そういうその、取材にいらしたときに、授業を見ていただいたりなんかりしたこともありますから、そういう中で、そこが非常に気になった(笑)。特別に、だから、先生方の、そういうことで研修の中で、そうだってことではないんですよ。そういう経験があります、私は。
菊地:
それで、さっきみたいなまとまった冊子なんかを作るに当たって、何かよりどころとか、こういう本を参考にしたとか、だれそれ先生の指導論を採用したとか、そういうようなことはあったんでしょうか。……普段、実践する中からそういうのを積み上げていったんでしょうか。
内藤:
……特別、何かよりどころがあったっていうものじゃないと思うけどな。
菊地:
ちょっと後のやつだと、上村幸雄先生のとかってのがなんか表紙にあるのがありましたけども。上村先生がいらっしゃったりしたんですか。
内藤:
うん、来たんでないか。来なかったか?
小原:
来たよね、たしかね。
内藤:
来たと思うよ。……何回かあの、話し言葉の研究会開いているんで……2回ばかりやったんでないか。
小原:
大きいのはね。とにかく、大きいのは2回か。
内藤:
全県規模の研究会を、2回ばかりやってるんです。
小原:
うん、うん。
菊地:
これやっぱりあの、伝統校だからというような。
内藤:
うん。うん。
菊地:
とにかくああいうものをまとめて何か成果を出すような。
小原:
結局、確かめかな。
菊地:
確かめ。
小原:
というのは、昔から、その遠藤先生のこう、ね、それを今現場にいる私たちがね、どれをどう受け継いだかっていうことはあれですけど、現在の子供たちの姿、それまでのその、いろんな研究の成果、そしてこれからこの基盤に立って、そしてさらにこういう面こういう面ということで、やろうとしていること、などの、何だ、確かめなんていうとちょっと変なんですけども、とにかく授業にぶつかる私たちは自信持って適合をやって、そして指導していただくと。そして、そこでこう、こうなることもあるかもしれませんけど、そうすることによって、私たちが高まり、私たちが高まるということは子供も高まり、そしてあの、伝統が受け継がれ、強いものになっているのだというね、そういうような気持ちはね、ありました。
菊地:
それにはさっきあったような、小規模校化に伴うというような、頑張らなくちゃというようなものもあったんですかねえ。
内藤:
うーん、それは特に。
菊地:
それと結びつけるのは強引ですか。
小原:
(笑)
菊地:
そう言えば簡単ですけど。……それでですね。先ほどのあの、生活の中の指導というところでは、特に方言だから悪いとかそういうふうなことはやらないとおっしゃっていたわけですが、そういうことは、ことば指導は、方言を矯正しようと思ってやっていたのではないということでしょうか。……悪いから直さなきゃいけないと。
小原:
ああ、矯正ね。
菊地:
方言を強いるんじゃなくて、矯めて直す。
小原:
うん、うん、うん。
内藤:
うん。
菊地:
というわけじゃなく。
内藤:
うん。
小原:
そうねえ。
菊地:
それとも、日本語としてはこちらがあの、正しい日本語というのがあるから、その正しい日本語の発音とかことば遣いを教えようとしたのか。
内藤・小原:
うん、うん。
菊地:
後者のほうですか。
内藤:
うん、そっちのほうが主体です。
小原:
そう、そう、そうですね。だから、その点が非常にあの、大事にされた分じゃないのかなあと思うんです。あの(笑)前に私、話したんですがその、駄目ですよってふうになっちゃうと、もう行き詰っちゃって、ね、言語そのもののこの、何て言うんすか、……最終的なね、目的がね、あの(笑)
菊地:
言語の目的はやっぱり、あの。
小原:
表現することなんですよ。ねえ。まあ書き言葉であっても、話し言葉であっても。その表現することが、目的が、そがれたら、いくらこちらの持っている目標なり何かが立派であっても。
菊地:
怖くてしゃべれなくなったりと。
小原:
ええ、それは、違うと。ね。
菊地:
だとすると、そこらへんはまさに遠藤熊吉先生の教えを実は受け継いでるのかなあという気がしますね。なんか先生は、本当に、まず方言を話すことに誇りを覚えさせてと言うような感じだったようですが。まあ、あえて方言を教えるようなことはなかったわけですね。
小原:
はい、ありません、ありません。
内藤:
(笑)それはない。
小原:
(笑)ありません。だから、前に内藤先生がお話しあったように、その子供がね、もう小学校に入る前からね、うちの人たちなり、それからまあ地域の人はもちろんね、でやっぱり正しいことばを使って話そうねって、そういう気持ちで学校入って来るわけでしょ。だから取り立てて方言をこちらで拾ってね、そしてそれはまずいよというような(笑)やり方やっちゃったらもう、どんどん話すことは……。だからあの子供たちは、聞くことに気を付けましたし、あの、話すことね、結局発音なりね、まあアクセントってところまではちょっといかないんですけど、とにかくはっきりした話し方で話しましょうねという……。
菊地:
それはあの、普通の会話だけじゃなくて、弁論とかにもなんでしょうか。自分で自分の意見を伝えるとか、そういう指導もされていたんでしょうか。弁論大会とか。
小原:
ああ、指導の、指導の場ね。場ね。
内藤:
それはあったんでないかな。
菊地:
遠藤先生のやり方だと、なんか教室とかあるいは体育館とかで代表者を選んで、こう対話を。
小原:
対話をさせたって。はいはいはいはいはい。
内藤:
そうそう。
菊地:
それはやっぱりやっていたんですか。
内藤:
やりました。
小原:
やりました。
菊地:
それもやっぱり自由に? なんか朝起きてからあったこととかを普通に話させると。それもまあたぶん引き継いでいたんでしょうね。……それでですね、その当時、そうした指導をしてきたことを今の時点でどのように思いますか。……照れくさいかもしれませんが、評価をしてください。
内藤:
やっぱりよかったんじゃないですか。実施はよかったと思いますよ。
小原:
私はもちろんよかったとね(笑)自慢できると思うんです。というのはね、指導したほうも、それからね、受けた子供たちも、自信を持って生活ができる、できているということを、あの、自慢できる。とにかく、ことばだとか話し方だとかということについて、あの、問題があるなら西成瀬地区へ行って、子供たちに話しかけてみたり、したほうが、私に聞くよりはよくわかりますよっていうふうに、話すときがありますよ(笑)
菊地:
西成瀬へ行けと胸を張って言えると。
内藤:
(笑)うん。
小原:
学校が閉校になって、残念ですけどもね。地域に入ってみれば、ね、すぐわかると思います。
菊地:
で、その当時の生徒さんとの、子供たちとの交流ってのはやっぱり、そういう指導を通じて密だったんでしょうかね。濃厚というか。他よりもなんか親密になれるとか、そういうことは特に無かったですか。
内藤:
それは特になかった。
小原:
特別にね。うん、特別にそういう親密とかって……さっき、今朝ですけど、始まる前にクサナギさんからも、自分のね、クサナギさん自身の体験を聞きましたけれども、今会社勤めで30年ぐらいもう済みましたな、その方が、大阪なり東京なりの本社からね、いらっしゃるんだって、その役員の方々がね。それに対して、秋田の工場の現場にいるクサナギさんが話対等にね、しているということを。そうすると、クサナギさんからのことばで言うと、「私は未だかって一度もことばで苦しんだことは無い」。
内藤:
うん。
菊地:
それはもう、みんな卒業生に共通して。
内藤:
それはもう、よく聞く、話だ。遠くに行っても全然ことばには困らなかったっていう。逆にあの、発音がいいとかってほめられるって。どこ出身だっていうんで、秋田だって言えばびっくりされるって(笑)
小原:
うん、そういう話はね。
内藤:
しょっちゅう聞くね。
菊地:
……それでですね、その優れた、評判を呼んでいる西成瀬小学校での話しことば指導なんですが、それが他の地域とか秋田県全域とかあるいはさらに日本全国とかに、残念ながらそのやり方が広まってはいなくて、まだ知る人ぞ知るっていう感じがありますよね。
小原:
(笑)あ、そうかそうか。それはおかしいじゃない?(笑)
菊地:
おかしいかもしれません。なぜなんでしょう。
小原:
だからね、ここでしょ、まず、ここでしょ。本元がここでしょ。こういくと合併しましたから。学校が合併しちゃったんで、増田小学校の子供たちと、元のね、それから亀田小学校の子供たち、それから小栗山などね。私はあの、なんていうかな……私は今、亀田地区に住んでいますけど、ね(笑)、先日も小松先生とお話ししたんですが、地域全体の子供たちなり、それから保護者の方々のお話なり、それから老人の人たちのお話なりは、前に比べて非常にね、よくなってると思ってんですよ。
菊地:
西成瀬の地域全体。
小原:
うううん、亀田地区全体。ですから、それはね、亀田小学校でも特別にね、こうだとか、それは学校経営の中に含まれていると思うんです。そういう点ではあの、なんていうかな、昔よりも交流が激しいわけでしょ。そういう点から考えてあの、特別に言語教育という、そういうあの、堅苦しいことではない形でも、こう広まっているんじゃないかと思うんですよ。それよりも前、それよりも前なんて言うとね(笑)私ここに、西成瀬小学校に、30年の4月から40年の3月まで10年間お世話になったんです。ね。そしてその後、同じ地区の現在増田東小学校という、私が行ったときには小栗山小学校、小さい栗の山、小栗山小学校に私赴任したんです、こっから。と、中学校になりますと、西成瀬小学校と小栗山小学校の子供たちが、その、ここから一つ向かいの吉野に、あの、西成瀬中学校ということで一緒になりますね、一緒になるんですよ。その小栗山小学校に私赴任したときには、あまり気にならなかったんですよ、ことばについて、向こうの。小栗山の地域の子供たちの話し方なり、父兄のね、話し方が。ということは結局、中学校で一緒になるし、父兄の方々がPTAだとかなんかで一緒になるわけでしょ。それから地域の人たちは合併しましたから、あの、場が広くなりましたから、そういう点であの、影響を受けながらね。特別こうだって……。
菊地:
結局、中学校とかで西成瀬の人の影響を受けた人が大人になって。
小原:
ええ、地域の老人の人たちも。交通の便、今まではね。
菊地:
そうですね、隔絶したところじゃないから。西成瀬の教育の結果が他地域にも自然と広がったんですかねぇ。
小原:
そう。そうだと思ってんです、私は。
内藤:
それはあると思うな。
小原:
中にはこういうふうにしましょうという話し合いで、学校教育の中に取り入れて指導なさったと思うんですよ。ええ。
菊地:
その結果として、他の地域でも、かつて西成瀬でこう、一生懸命やっていたようなことをやらなくても自然に全体的にレベルが上がって、共通語が使えるようになってきたから、あえて取り入れない、西成瀬のやり方を真似しなくても。
内藤:
それは無いと思う。
小原:
そこまではねえ。
内藤:
ただ、その。言語教育なぜ他の学校がやらないかっちゅうと、これ難しいと思うんですよ。生半可でできない。(笑)
菊地:
ああ、お姉さんの言葉のようにね。
内藤:
だからそれに取り組むってことは大変なことなんですね。だから、まず、あえてそれをやろうという学校がなかったっちゅうのはやっぱり(笑)一人やろうなんたってとてもねえ、できることじゃないんですから。ええ。それ考えると当然だろうなっていうふな感じですねぇ。あまりにも、その、教えること以外の労力がすごいんだもんねぇ(笑)
菊地:
小学校だから、他の教科も全部やるほかに。
内藤:
そう。教えてのほかに、ことばどうやってその指導するかっていうと、相当な負担になるんですね。そうでなくても、今学力向上だとか言われてその(笑)そういうときにね、それ言語教育に時間を割くっていうのはね、ちょっとやっぱり、とても難しいことだと思いますねえ。まあ、そういうことが他にもこう広がらなかった(笑)原因なんじゃないかなってふうに思うんだけど。
小原:
相手は日本語だからね(笑)ね。ここの算数の意味ってんじゃなくてね。ね。代表ってんでね。とにかく日本全体の日本語ですから(笑)。ちょっと続いてくのね、やっぱり、ああっ。
菊地:
西成瀬の規模だからできたという感じか、いややっぱり西成瀬の規模でもできない、熱意とかがなければできないんでしょうか。
内藤:
そうですね。簡単にはできないな(笑)簡単にはできない。
小原:
だからこそ、先生方が、結局遠藤先生のそのお考えなりね、指導なりね、それをもとにして今まで西成瀬小学校ではどういう指導法でこういう成果を挙げているのかというようなことをあれでしょうから、だから……やはり内藤先生がお話ししたように、そういう意識はあるにしても、何とかしてやらなきゃいけないなというふうには考えているんだけれども、ね、実際やろうとなると、これはねぇ(笑)だから、「ここだからやれた」というふうな言われ方をするのは、私個人は非常に残念なんです。結局なぜかというと、そういう……それまでの頑張りっていうのじゃなくてね、一つのしっかりした考え方を持って生活全般で指導なさってくださった、遠藤先生っていうあの、先生がいらっしゃいましたし、受けたね、子供たちがいましたし、その人たちが自分の子供なり地域なりから、それをなくさないようにっということで、みんなで守り通してきたという、そういう、ね。
菊地:
全体での。
小原:
もう、ものすごい力がね、あったからこそ、ね、できたのであって、そういうことを生半可なあの、聞き取りだけで、西成瀬だからできたのだ、鉱山があったからこうだろうなんて、考え方なり話しされたりすると、私はくやしいんですよ(笑)
菊地:
先生方の苦労も。楽にできることじゃないですよね。
小原:
(笑)
内藤:
そう、そうですよ。
菊地:
その辺も重々あの、肝に。
内藤:
まあ、先生方も研究会なんてもう夜遅くまで、泊りがけでね、夜通しやったんですよ。
菊地:
夜通し。何日もとか。
内藤:
だから、よくあの「提灯学校」とか。
小原:
そう。提灯学校ってね。
内藤:
言われたんですよね。夜遅くまでやって、提灯やって、つけて帰るとかって。(笑)
小原:
それからもう一つね、もう一つあるよな。「提灯学校」と言われたことありますよ、あります。それからね、ほれ、いろいろ記録をまとめたり、学校報を発行したり、学年通信なりを発行したりするわけでしょ、当時ガリ版でしょ、今のようには。そのときに原紙ってのありますね、ね。それをあまり使うもんですから、それから全校配布なりって校報なり、1回千枚以上も刷るわけでしょ。そして配布するわけでしょ。すると西洋紙も使うわけでしょ。原紙でしょ、それからインクでしょ、それに印刷器具でしょ。あの、今のようなあれですね。ローラーのときです。んでね、「紙食い学校」とも言われましてね。ええ。もう教育委員会の学校予算ね、学校予算を紙でね。だから、まず、まとめるとね、テスト1枚全部、証拠取ったんです。原紙を捨てない、必ず1枚は残しておく。そして教育委員会の視察のときに「このとおりなんです」と。
菊地:
これを使ってるんだと。
小原:
そういうことまでね(笑)まず、そういう苦労をね、あの、しながら、それから私たちはとにかく申し訳ないと思って、今もそう思ってますけども、その当時、あの、あれは、校務員だったの? エミコさんがたは。
内藤:
エミコさん?
小原:
オオノシュンだとか、エミコさんだとか、ヒロコさんだとか。
内藤:
まあどういうあれだったんだい。
小原:
今で言う用務員?
内藤:
用務員とはまた違うな。
小原:
違うでしょ。
内藤:
違うな。
小原:
給食の方で特別頼んだかた?でもないでしょ。
内藤:
ない。
小原:
給仕さんでもないでしょ。……いや、という方がね、いらしたんですよ。その方にね、その印刷。
菊地:
大変ですよね、もう。
小原:
いやあ。
内藤:
長年それやってると、もう機械みたいになっちゃってね、ものすごい速いんですよ。
小原:
そしてその西洋紙にね、裏表なんですよ。印刷。まあ、先生御覧になったと思うんですが、これがその当時の後藤先生って言う教頭先生がね、残念ながらなくなられたんですが、その先生がね、退職なさってからまとめていただいたものなんですが、これなんですよ。これのね、この「西小」っての、これなんです。これが校報なんです。ね(笑)これが表なんですよ。これがまず、そうね、そうそう、まず。これを、その、今、その何だったってことで(笑)、用務員でもない、校務員でもない、給仕さんでもない、ね、という方に頼んでね、刷っていたの、ものすごい労力になったんですよ。ほんと、あの、ことばではね、気持ちを込めて本当にありがとうございましたって、難儀かけましたってね、言ってはね、きているんだけども、今ね、今ほんと先生方がいらっしゃるってことを私、今日の案内いただいたときに、一番いいのはこれだってことでね(笑)これをめくりながらね、思い出したんですけどね。
菊地:
今のワープロでとかと違って、一マス一マス鉄筆で埋めていって、ねえ、それを。
――しばし見せていただく。
小原:
この主張は、校長先生、教頭先生、ね、が主張ということで教育の、それからPTAの役員の方々にね、会長さんだとかの方にも書いていただいたし、こちらで意図的に、地域に提案するという主張を掲げるし、自称問題振り返ってなんてあるんですよ、それとこれに対する反論が来るわけでしょ(笑)。
菊地:
ああ、すごいですねえ。
小原:
まずね。
内藤:
こういうものも。
菊地:
ああ、PTAが勉強。ほう、家庭教育も含めて。はあ。
内藤:
まあ、よくやったな。
小原:
やったっていうかよ、私ほんとこれ、めくりながらね、よくほらぁ……だからね、そういう中身をわからない方がこれを開くと、なんだいったいこのことば教育、言語教育、とにかくもうすべてに出てきますから(笑)と思うだろうと思います。
菊地:
これをじっくり見ると、その実態も……そうですね、毎日毎日どんな苦労があったのか。
小原:
我々のね。そうですね。
――しばし見入る。
小原:
あれはまた別なの。本番のときのあの研究会の。
内藤:
ああ。
小原:
あの本番。
内藤:
本番いつだったかなあ。
小原:
あのときに、奥田先生いらしたんでしょ。
内藤:
うん。そうだな。うん。
菊地:
奥田靖雄先生?
小原:
靖雄先生かな。
内藤:
靖雄先生だな。
小原:
あれは、あの読解のときの、言語のすすめで、まずは読解てことで、それが全県規模の、あれが、あれが二つ目か? 最後だいか。
内藤:
最後だったかな。
小原:
このときだったいか。……そうそうそう。たしかそうです(笑)
菊地:
本当に今日は貴重な時間を。
小原:
いえいえ、どうもどうも(笑)役に立ったかどうか。
菊地:
いえ、すごく面白く。やっぱり先生方の苦労に支えられてのことだってことを改めて教えていただきまして。
【文字化:菊地悟】
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