昭和6年から16年までに西成瀬小学校に勤務した柴田キエは、次のように話す。
毎朝発音指導をし、運動会で賞品を貰う時でも「イットウショウ」と発声して受け取る程徹底した発音指導を行なっていたが、作文指導も決しておろそかにしていたわけではなかった。 |
西成瀬小の児童の作品が北方教育の綴り方作文集『北方文選』に登場するのは4号(昭和4・12・1)から13号(昭和5・10・18)までの短期間のことであるが、その間に散文27、詩6、短歌12、俳句9の多くが掲載されている。それは秋田師範の代用付属でもあり、滑川道夫という優秀な作文教師のいた明徳小学校に劣らぬ活躍であった。
『北方文選』五号(昭和5・1・1)の「編輯だより」には次のようにある。
西成瀬の諸君も皆いゝ。高橋三君に吉岡君どれもよい、載せたい事は山々ですがどれも長いので皆載せると西成瀬号が出来さうだ |
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『北方文選』 |
これが散文に限ったことではなく、7号(昭和5・3・1)「短歌欄〈真珠集〉」には「高学年のみなさんの為に短歌欄を新しくもうけました」とあるが、その欄の13首全部が西成瀬の高2の生徒のものである。西成瀬の作品に触発されて「短歌欄」が設立されたのであろう。
遠藤熊吉自身俳句にも長じていただけに西成瀬小の俳句には秀れたものが多い。
しかし、なんといっても西成瀬小の児童の作品で目立つのは、低学年の生徒の散文の完成度の高さである。
次の『北方文選』(11号、昭和5・7・17)の作文など2年生のものとは思えない。
お手がみ 西成瀬尋二 藤原源一
ねいさんしばらくでした。
四年もねえさんとあつたことがありませんねえ。ねえさん東京では何にをしてゐますかはしをこしらひてゐますか。この間ねえさんのおしやしんを見ましたら大そう美しい着物をきておしやしんにうつつてゐました。ねえさんいつころ家にかへりますか。ねえさんのお手紙を見ておばあさんは泣かないことはありません早く家へおかへりになつて下さいまつてゐます。 |
『北方文選』の諸作品は彼の次の論を裏づけるものとなった。
綴方から話方に移る事は必ずしも容易ではないが、話方に於て自由発表を十分習練した者にとっては、綴方の表現が一層楽になる場合の多いことは疑を容れない。(『言語教育の理論及び実際』) |
遠藤熊吉の標準語教育は、単に発音指導ではなく、独話、対話、討論を通じ、「生活内容の自由表現を目的」としたものであったが、入学して間もない生徒が上のような作文を書くのは、彼の話し言葉教育の徹底ぶりを示すばかりか作文指導に対する話し言葉の有効性を示すものである。